30年後も変わらぬ親愛 たきからシーボルトへの手紙 「鳴滝紀要」第32号で紹介

シーボルトの門人、三瀬周三が作成したたきの手紙の蘭文訳の一部(石山さん提供)

 江戸時代の出島オランダ商館医シーボルト(1796~1866年)が長崎の出島に上陸してから、12日で200年。神奈川県相模原市の元東海大講師でシーボルト研究者の石山禎一さん(86)は、シーボルトが愛した長崎の女性たき(1807~69年)が、59年に再来日したシーボルトへ宛てた手紙の蘭文(らんぶん)訳を新たに確認し、今年発行の「鳴滝紀要」第32号(長崎市刊)で紹介している。29年の日本追放の原因となった「シーボルト事件」への怒りや直後の不安、30年たっても変わらない親愛の情がうかがえる内容となっている。
 シーボルトはドイツ生まれ。1823年の来日後たきと出会い、27年に娘いねが誕生。帰国時に日本地図などの禁制品の海外持ち出しを図ったシーボルト事件で追放処分となった。59年にオランダ貿易会社顧問として再来日、62年に帰国した。
 石山さんによると、蘭文訳はシーボルトの子孫が所蔵する「ブランデンシュタイン家文書」から発見。シーボルトは再来日後、長崎に滞在し、たき、いねや門人と再会。61年に江戸で幕府の対外交渉顧問となったが間もなく解任される。手紙は61年ごろ、たきがいねに代筆させ、いねがシーボルトと一緒に江戸に向かう門人三瀬周三に翻訳を依頼したとみられる。
 三瀬は江戸で64年まで投獄されており、65年ごろ蘭文訳を作成し、和文と共に既に帰国していたシーボルトに送ったらしい。ブランデンシュタイン家文書からは、前半部が欠落した同じ手紙の和文が1999年に確認されており、いねの成長や門人の消息などについて記してあった。蘭文訳は和文と逆に後半部が欠落しているが、中盤の文面で共通する部分があったため、同じ手紙と分かった。
 手紙では、幸福な暮らしがシーボルト事件で暗転したことに「誰によって騒動(事件)が引き起こされたのでしょうか?」と怒りをぶつけ、当時の不安な心情を吐露。シーボルトの事件後の配慮や、帰国途上の1830年にたきへ送った手紙への感謝などがつづられている。
 石山さんは「鳴滝紀要」第32号に寄せた論考「シーボルト第2次滞在期に絆を深めたおたき、おいね母子との往復書簡」で、現在確認されているこの時期の書簡34通を紹介。蘭文訳は翻刻と和訳を掲載した。「たきがシーボルトへ送った書簡はほかにもあるが、シーボルト事件や直後の心情をつづった記述はこれまでになかったのではないか」と話している。

© 株式会社長崎新聞社