「兵庫・加古川に首都移転」大正期に幻の遷都論 平地で災害少なく水資源豊富、候補のひとつに 関東大震災100年

関東大震災で焼け野原となった東京=1923年

 約10万5千人の死者・行方不明者を出した1923(大正12)年の関東大震災から、9月1日で100年となる。首都圏を直撃した未曽有の大災害は、住宅約29万棟を全壊・全焼させ、官公庁も焼失するなど、政府機能はまひ。東京は「帝都として不適当」として一部で遷都が検討され、現在の兵庫県加古川市などが候補地に挙がった。現代も首都直下地震が懸念され、専門家は首都機能移転を本格的に議論するべきだと指摘している。(斉藤正志)

 23年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする地震が発生。10万棟を超える家屋が倒壊し、土砂災害や津波被害も起きた。火災による死者・行方不明者は約9万人に上ったとされる。内務省や警視庁など官公庁の建物も焼失した。

 首都機能は失われ、陸軍内では、遷都を探る動きがあった。当時少佐だった今村均の回顧録に、詳細が記されている。

 発生5日後の9月6日朝、今村は参謀次長に呼ばれた。参謀次長は、東京付近は70年ごとに大震災に見舞われるとの学者の説に触れ、戦時中に地震が起きれば戦争どころではなくなると指摘。防空上も優れた土地に遷都するため、候補地などの意見書を作ることを、内密に指示した。

 今村は歴史や地理、地質などの文献を当たり、意見書を起草。第1の候補地を京城(現ソウル)の南にある「竜山」とし、次に「播州加古川流域」を提案した。やむを得ない場合として東京郊外の「八王子」を推した。

 加古川の平地は、歴史的に大きな地震に遭っておらず、川の水の量、質とも十分なことを説明。阪神地域に商工地帯を置くことや、皇居と政府機関、教育施設のみを加古川に移し、米ワシントンにならって都市設計をすることを提案した。

 参謀次長は意見書を了承したが、9月12日に政府が遷都しないことを宣言する詔書を出したため、今村の案は日の目を見なかった。

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 現代において、首都直下地震は今後30年以内に70%の確率で起きると、政府の中央防災会議で予測されている。死者は最大約2万3千人、経済被害は95兆円に達するとされる。

 国勢調査によると、1920(大正9)年の東京圏(現在の東京都と神奈川、埼玉、千葉県)には約768万人が住み、日本の総人口の約14%に相当した。2020年には3691万人に上り、約29%を占めた。企業の本社移転も進み、政治や経済、金融など、各方面で東京一極集中は加速している。

 首都機能移転に詳しい高崎経済大の戸所隆名誉教授(都市地理学、国土構造論)は「首都直下地震が起きれば、首都圏は関東大震災よりも大きな被害を受け、国家の存亡に関わる可能性がある」との見方を示す。その上で「経済首都としての東京は残し、国会、官公庁、最高裁を新都市に移すなど、リスク回避のための議論を平時から進めなければならない。実際に災害が起きてからでは遅すぎる」と話している。

阪神・淡路後などに再燃も近年停滞 専門家「首都直下備え移転議論を」

 首都機能移転は1970年代、国会で議論が活発化した。国政全般の改革▽東京一極集中の是正▽災害対応力の強化-が目的とされた。

 90年に衆参両院で「国会等の移転に関する決議」が採択され、92年には「国会等の移転に関する法律」が施行。99年に国の審議会が、移転候補地を「栃木・福島」「岐阜・愛知」「三重・畿央」の3地域に絞る答申をした。

 しかし、2000年代に入ると、首都圏の知事の反対や財政面などの問題から議論は停滞した。

 95年の阪神・淡路大震災、11年の東日本大震災の発生後には、首都機能の在り方を見直す議論が再燃したが、沈静化している。

 近年は、行政機能の他都市への「分散」や、あらかじめ代替する都市を決めておく「バックアップ」が検討の焦点となっている。

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