異例だった「通訳」から「プロの指導者」に転身できたワケ…間瀬秀一監督インタビュー

異色のキャリアを歩みながらJリーグ、ナショナルチームを率いた監督がいる。

現在東海社会人1部wyvern(ワイヴァン)で指揮を執る間瀬秀一監督、現役選手時代は数々の国を渡り歩いて豊富な経験を積んできた。

後にイヴィチャ・オシム監督の通訳としてジェフユナイテッド市原・千葉で初のタイトル獲得に貢献し、監督としてはブラウブリッツ秋田、愛媛FC、モンゴル代表を率いた。

Qolyは間瀬監督に独占インタビューを実施。これまで歩んできたキャリアを振り返る。第4弾は通訳業から指導者の道を歩んだ経緯、秋田監督時代を振り返った。

通訳業から指導者業へ転身

――オシムさんの長兄アマル・オシム監督の通訳をされた後に、千葉でトップチームのコーチに就任しました。なぜ通訳業からコーチ業に転向されたのでしょうか。

僕はサッカーの指導者として、プロの現場でやりたいという想いがすごく強かった。

例えばJリーグで監督の通訳をされた方は、その後大体は育成からキャリアを積みます。ジュニアユースをやって、ユースをやります。

僕はそういう気がさらさらなくて、プロしか指導する気持ちがなかったんですよ。

――なぜプロの現場で指導しようと思ったのでしょうか。

最初からオシムさんの通訳をやらせてもらって、J1クラブがどうやって1週間トレーニングをして、どういうミーティングをして、試合前のマッチコミッショナーミーティング、取材の対応、記者会見も全部経験しました。

プロの指導者が監督としてやるべきこと、ノウハウがもう既に全部あったんですよ。何が行われるかというのも全部知っていた。

秋田との運命的な繋がり

――なるほど。オシムさんのそばで通訳を経験したから監督業に転身されたのですね。

(プロの現場で働く)アピールをさせてもらったんですよね。その中でジェフが認めてくれました。アマルさんが2年目のときに、僕を通訳だけじゃなくて「通訳兼コーチ」という形にしてくれたんですよ。

アマルさんがいなくなって新たにヨシップ・クゼというクロアチア人監督が来たときに、初めて「通訳兼」というのも無くなって、トップチームのコーチにさせてもらったんですよね。

いいスタートを切らせてもらったので、その後違うクラブへ行ってもファジアーノ岡山、東京ヴェルディでもトップチームのコーチをやらせてもらえました。

――そして秋田の監督に就任されました。親族に秋田出身の方がいて秋田とは縁があったとか。

(親族に秋田出身がいることは)そうそう、それは偶然だったんですけど。純粋にブラウブリッツ秋田、そして岩瀬(浩介)社長がいろんな人選の中で私を選んでくれた。

自分の母親が秋田出身なんですよね。幼少期は秋田で育ってたりとか、その関係もあって自分の親戚が秋田に住んでいたりとか、秋田の知っている街並みがあるんですよ。あと9歳のときですかね、小3のときに旅行で秋田へ行きました。なんだろう…。秋田は運命的でしたね。

監督業は生活を豊かにする取り組み

――偶然にも秋田と間瀬監督には深い縁があったのですね。

岡山時代に僕が青い車を運転しているときに、当時の影山雅永監督(現、JFAユース育成ダイレクター)が「お前が運転する車は青い稲妻だな」とよく言っていたんですよ。

ブラウブリッツは(ドイツ語で)「青い稲妻」という意味なんですよ。だからなにか不思議な縁がありましたね。

――プロ監督として初めて秋田を率いました。一度愛媛FCを挟んで、その後また秋田に再任という形になりました。Jリーグクラブの監督業を振り返っていかがでしたでしょうか。

いまの僕が振り返ると、「日本人同士の戦い」ですよね。日本人が日本人同士で戦うという。そこで違いを見せる、秀でるためのノウハウを考えるという勝負ですよね。そして日本人が集まって、選手、クラブ、サポーターと自分たちの生活を豊かにするという取り組みですよね。

――生活を豊かにする取り組み…。なかなか思いつかない発想ですね。

Jリーグクラブで監督をすることは、それ以上でもそれ以下でもなくて。そのための生活ですよね。すみません、伝わったかどうか(笑)。

選手としても、指導者としても、国外に行かないとこういう発想には、もしかしたらならないかもしれない。日本人同士がという感覚が強いですよね。日本人が、日本で各々の生活を豊かにする取り組みですね。

秋田を元気にするために

――秋田を振り返って印象的だったことを教えてください。

秋田は過疎化や、ガンの死亡率、自殺者数と実はすごくネガティブなことも多い。でも秋田県民を元気にするために、その秋田で自信を示すという戦いですよね。

そういう意味では並々ならぬものがあったし、もちろん山田尚幸主将(現J3ヴァンラーレ八戸)も、私も、岩瀬社長も含めて、秋田出身じゃない人間が秋田に集まって、秋田のみな様のためにやるというすごく熱いものがあった。

その秋田出身者じゃない人間と秋田のみなさんと力を合わせて生活を豊かにするという。だから素晴らしい経験でしたね。

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次回はモンゴル代表監督に就任した経緯と経験、自身を襲った病についてのエピソードを掲載する。

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