小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=42

「この辺はまだ開墾されてないのね」
 こんもりと空を包んでいる樹木を見上げながら、誰に言うともなく律子は声を出した。
「夜明けの森林って美しいな」
 と、横から浩二が言った。
「低地はコーヒー園に適さないので、誰も開墾しないんだ。雑作地か牧場として利用するんだよ」
 言いながら、太郎は再び馬にけしかけた。馬車は動き出した。
 森林を抜けると、またコーヒー園が開けていて、そこはもう添島植民地である。責任者磯田の家は広いコーヒーの乾燥場の並びにあった。
 馬車の音を聞き、角刈り頭の磯田が応対した。大柄ではないが、がっちりした体格の持ち主だ。盛んに吠える二匹の犬を制しながら、
「よう来なはった。田倉さんたちのことは、よく岡野さんから聞いとります。心配することあらしまへん。ここの入植者は皆兄弟みたいなもんや。あそこに四軒ある右端が田倉さんの家や、あちらへ馬車を廻してくれますか」
 磯田は先に歩き出した。関西人らしい言葉遣いが、同じ関西の田倉親子に親しみを与えた。
 充てられた家は土壁、茅葺きの一見みすぼらしい感じだが、内は間取りも巧く出来ていて、きれいに掃除してあった。
「この家にいた三浦さんはな、いい働き手で、コーヒー樹の成績も良かったのに、棉作りが儲かるなどと煽てられて出てしもうたけど、その後に入った田倉はんは、儲けものですわ。来年からコーヒーの実も成るし、こんな拾い物そうありまへんで」
「うまくいけばいいんですけど、病人ばかりで、よろしくお願い致します」
 はぎは、浮かない顔で磯田に頭を下げた。
「奴隷のようにこき使われる耕地より、気心の通じる日本人同士の植民地にくると、もうそこは自分の故郷みたいなもんですよ」
「……」
「ここは地方きっての健康地と言われてまんね。下の小川に、入植者たちが共同で作った水車小屋もあって、皆で利用してますが、誰もマラリアにやられてません。マラリアは雨期の間だけですから、もうすぐ田倉はん、元気になりまっせ」
 荷物を降ろし終えたところへ、磯田の妻と娘がのコーヒーとパンを運んできた。顔立ちのいい親娘であった。まだ食卓がないので土間に板を並べて一同は座った。
「お疲れ様でした」
 上手な日本語を使って、和美というその娘は皆にコーヒーを注いで廻った。

© BRASIL NIPPOU