ノモンハン事件で戦死 信心深い青年がなぜ戦場を選んだ 日記に煩悶する心情、徴兵猶予の選択放棄

小野中時代の三浦一藤(藤田家提供)

 1939(昭和14)年8月23日。当時、日本が実質的に支配していた満州国の国境線沿いで、歩兵中心の日本軍は、戦車による近代戦を展開するソ連軍による大攻勢にさらされていた。

 ノモンハン事件-。日本ではこう呼ばれる戦いで、日本軍約8千人が戦死したとされる。その中の1人に、同志社大学在学中に志願し、戦場に向かった三木市出身の三浦一藤(いっとう)がいた。

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 三浦一藤は1916年8月3日、三木の鍛冶職人藤田友治郎(ともじろう)の五男として誕生した。友治郎は一介の職人から身を立て、日露戦争後に三木で藤田製作所を創業。26年には姫路市で開かれた全国産業博覧会の金属製品分野で「名誉金賞牌」を受けており、金物のまちを代表する職人として名高い。

 8人きょうだいの末っ子として育った一藤。旧制小野中学校(現・小野高校)時代は、剣道をたしなんだ。

 34年、藤田家とゆかりの深い三浦家の養子になる。三浦家には母・ひでの妹が嫁いでおり、一藤をかわいがっていた母の意向による養子縁組だったという。

 次兄の影響でキリスト教に引かれていた青年は同年、小野中を卒業し、同志社大学予科第2部に進む。2年後に同志社大学文学部神学科に入学した。

 キリスト教への理解をさらに深めた一藤は36年夏に宮崎、37年夏には同大の創始者新島襄ゆかりの群馬県安中町を訪れ、教会で伝道に励む。

 その一方で、37年5月に徴兵検査を受けていた。

 同7月、中国・北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件が勃発、日中戦争が始まった。一藤の兄光治も、その中国戦線のさなかに身を投じた。

 同年12月24日夜、一藤に召集令状が届く。同26日に書いたとみられる日記にはこうある。

 「自分は『血』に生くるのだ。見ゆるこの一片の肉塊は、この大いなるものの前には実に幻の如きものであるにすぎないのだ。と考えると過去23年間の生活が、三浦一藤と云う生活が、今更の如く感ぜられて来て変な気持がする」

 国の存亡をかけた戦争の渦中で、自らの存在意義を問うているかのようだ。翌日、一藤は遺言状をしたため大学の友人に託す。

 当時はまだ、大学生である一藤には徴兵猶予の選択肢が残されていた。三浦家へ養子に入り、同家の跡取りとなるべき存在でもあった。同志社大に通い、キリスト教に信心深い青年が、戦場に向かったのはどういう理由だったのか。

 「叔父は自分の道に悩んでいたんだろう」

 一藤が召集令状を受け取った年に生まれ、おいに当たる藤田基弘(86)は推測する。自身も一藤と同じ五男。「親を超えるのが子の使命とされるような時代だった。でも、叔父の場合、父が歩んだ道には跡継ぎの兄がいる。同志社で学者や牧師になるとしても同じ新島門下で競争がある。何をしたらええねんという思いがあったのだろう」

 実際、召集前の日記には煩悶(はんもん)する一藤の心情が残されている。

 「伝道者と云うものがこんな貧学勉強して、無理をつづけて(中略)卒業後すぐに、無理な事業に携はって、一体肉体は保ってゆくのであらうか」(37年9月28日)、「今望みは、大きな人物になること」(同9月30日)、「軍隊に行くのならそれでよい。行かぬのなら絶対独立の自炊生活だ」(同10月19日)…。

 当時は新聞紙面でも「国を守れ」などといった文字が躍り、世間を戦争へとあおった。志願も名誉とされ、反対する者などいなかった。

 「今の時代なら、なぜ戦場にと思うだろうが、そういう時代だった。叔父に『こういうふうに生きなさい』と諭してくれる人がいれば…」。基弘は目を伏せた。

 年が変わって38年1月、一藤は姫路の歩兵隊に入営する。3月、旧満州とモンゴルの境にある守備隊に編入され、ハイラルに赴任した。まだ21歳だった。

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 日中戦争や太平洋戦争では、多くの若者が戦地に動員された。ふるさとの地を二度と踏めなかった者も少なくなかった。なぜ若者は戦場に向かったのか-。愛息に先立たれた父・藤田友治郎と、三浦一藤父子の歩みをたどる。(長沢伸一、敬称略)

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