やけど痕「地獄のような痛み」 医師らとの出会いが将来変えた「一生懸命生きる」

大学で機械工学を学ぶ三木慶太さん。事故の経験を生かす道を歩もうとする(金沢市内)

 死傷者58人を出した福知山花火大会露店爆発事故から15日で10年。惨事は被害者とその家族の人生を大きく変えた。当時、現場に居合わせた記者が当事者を訪ね、あの日から重ねた日々と胸の内を聞いた。

 JR金沢駅で会った青年は、10年前に取材した彼の父によく似た柔和な表情をしていた。パーカの袖口からのぞく手の甲に、ふと目が向く。ケロイド状にただれ、赤みが残る。私の視線に気付いた彼はうち明けた。「誰にどう思われようと構わない。今では半袖も着ます。でも、小さい子がいる場はケロイドを怖がるかも、と思って隠しています」。

 三木慶太さん(20)=石川県。小学5年生、10歳だった当時も、気丈に振る舞っていたのだろうか。

 爆発事故は、お盆の花火大会という場が災いし、小学生も多く負傷した。当時の取材ノートには警察や消防署員、保護者から聞き取った子どもたちの容体が書き連ねてある。「ドクターヘリで搬送」「重篤」「3度熱傷」「皮膚移植」…。駆け出し記者だった私にとって恐怖と緊張の連続だった。できれば、逃げ出したかった。

 慶太さんも、火元近くで惨事に巻き込まれた。「気付いた時には炎と爆風に囲まれていた」。手脚や顔など全身40%が真皮に達する「2度熱傷」を負う。京都府福知山市内の自宅から一緒に来ていた母と3歳下の双子の妹2人も、別々の病院へ。仲良しだったきょうだいは離れ離れになった。

 やけど痕を洗浄する、入院中の治療は「毎日、地獄のような痛み」だった。腹部の皮膚を足首に移植する手術にも耐えた。「怒りも悲しみもない。ただ目先の治療が怖くて怖くて、たまらなかった」。

 その後、同じ病院に転院してきた妹と数カ月ぶりに再会した。だが、何も話せない。「妹も同じ治療を受けていることが分かってたから。しんどすぎて、苦しかった」。

 やけどの影響などで膝の筋肉が固まり、医師からは「もう歩けないかもしれない」と言われた。「(大好きな)野球ができないかも」。すぐには現状を理解できなかった。泣きながら恩師が見舞いに来てくれたこともある。励ましのメッセージを収めた同級生の動画は何度も何度も見た。看護師らは院内で野球大会を開き、励ましてくれた。

 つらいリハビリを繰り返し、退院できたのは半年後、季節は冬になっていた。

 車いすからも少しずつ離れ、中学生になると、野球部に入り再びグラウンドを踏めた。「学年が上がるにつれて練習量が増えた。不安はあったけれど、自分には野球しかなかった」。

 止まっていた時間を取り戻すかのように、高校も地元の強豪校を選び、野球に打ち込んだ。日焼けや発汗に弱い皮膚への心配は尽きない。それでも家族や仲間に支えられ、やり切った。

 成人を過ぎた今も、手脚にはやけど痕が残る。ガスの臭いを嗅ぐと、事故を思い出すこともある。

 「なぜ自分があんな目に遭ったのかと怒りが湧いた時もあった。でも、この体と一生向き合っていくしかない」

 慶太さんに会う前、彼の父と交わしたメールの一文が浮かんだ。

 <本当の試練はこれからだと親としては思っています。それが本人の更(さら)なる成長につながるはず>

 <いつまでも被害者、ということにこだわる必要はないと思っています>

 慶太さんは大学で機械工学を学ぶ。目標は、ケロイドの皮膚を治療する医療機器の開発に携わること。助けてもらった医師や看護師らとの出会いが将来を大きく変えた。

 「やけど痕はあえて、そのままにしておく。自分の境遇が、開発に生かせるかもしれないから」

 今、こうしていられるのは奇跡、と言う。与えられた命。だから、一生懸命に生きる―。

 あの日を思い、誓う。

 

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