乗るはずの船沈んだ元通信兵、出撃3日前に終戦迎えた元特攻隊員…青森県三戸町に戦争知る100歳2人

1943(昭和18)年の東奥日報の写しを手にする藤田さん。手前は掲載された若き日の藤田さんの写真

 激烈な戦時を越え、共に100歳となった2人の男性が青森県三戸町にいる。一人は通信兵として従軍した藤田祐一さん、もう一人は特攻隊員だった大村達美さん。いずれも復員、家族に恵まれた。それぞれに平和のありがたさを実感しつつ、ニュースで見るウクライナの戦禍に実体験を重ね合わせ心を痛める。

 「シンガポール外海で、日本の船が敵襲により沈没、約200人が全滅」。戦地を移動するため乗るはずだった船が沈められたと、藤田さんが看護師から聞いたのは、入院していたシンガポールの病院。一度は乗り込んだものの、高熱で地上待機となっていた。1943(昭和18)年9月26日に7隻の日本船舶が撃沈される事件があり、その前後とみられる。藤田さん以外の約200人が全滅した。寄せ集めの部隊で知人はおらず、高熱のため船内の記憶はない。他の船が沈んだという話も記憶にないが「一部隊が乗ったのだから、大変な被害」と言葉を失った。「戦争だから仕方がないが…。世の中というのは、本当に運と感じます」と三戸町豊川の自宅で語る。

 田子町出身の藤田さんは、田子小を卒業後、学校の給仕の仕事をしながら高等小学校を出た。通信に興味があり、高等小在学時に「知人から『トンツー(モールス信号)』を習った」という。その知人から「満州(現在の中国北東部)で通信ができる人を探している」との話を聞き、37年から3年間、満州で民間人(軍属)として航空機の通信補助を担い、電波による航空機の方向探知を覚えた。ある時、現地で出会った将校に勧められ、陸軍少年通信兵学校に進み、2年間学んだという。

 43年10月30日付の東奥日報に若き日の藤田さんの姿がある。「母校の給仕から空へ 優等で卒業した藤田通信兵」の見出しが躍っている。同校では成績優秀者2人に卒業時、銀時計を贈っており、藤田さんも対象になったが戦時下で銀が貴重ということで「クロムメッキの時計だった」という。

 通信兵学校卒業後、藤田さんが送られたのはシンガポールの南方軍大本営陸軍部特種情報部。同軍総司令部がシンガポールに移ったのは42年9月で、その後、フィリピンのマニラに移る44年4月までの間に現地にいたとみられ、敵国の暗号を傍受し、情報を伝達するのが任務だった。「内容の分析は別の担当がするので、もっぱら内容の分からない50~60文字を書きとどめ、伝達した。任務内容の性格上、外部との接触はほとんどなかった」と振り返る。

 終戦を迎え、シンガポールを後にする際は「軍に関することは紙切れ一枚でも持ち出しを禁じると丸裸にされ、ほとんどのものを没収された。通信兵学校でいただいた時計も、そこで取られた」という。前線に立つことはなく、死を身近に感じたことはないが、それでも船で下関に降り立った時は「ほっとした」。復員後は南部バスで長年働き、三戸町議も務めた。

 一方、三戸町同心町の大村さんは20代前半で出征、大工の経験を生かして船を作ったり、上官の刀を研いだりしながら海軍特攻隊員として特攻艇で出撃予定だったが、出撃3日前、香港で終戦を迎えたという。ただ、家族によるとあまり戦争の話をしたがらないといい、詳細は判然としない。

 藤田さん、大村さんともに子、孫、ひ孫10人以上に恵まれ今、平和なふるさとで静かに暮らしている。だが、ウクライナ戦禍に「まるで、戦争当時の日本と同じ。関係のない市民が巻き込まれ、苦しめられている」と藤田さん。「戦いは命を奪う。なぜ言葉で解決できないのか。本当にばからしい」と憤り、「前線には出ておらず、真の意味の戦争は知らないが、私の体験が少しでも多くの人に伝わり、平和が続いてくれれば」と願っている。

© 株式会社東奥日報社