月山信仰と肘折温泉の歴史について

月山登拝道の肘折口

登山口(肘折ルート)

月山には、現在、八方七口という登山道があります。肘折口、本道寺口、大井沢口、岩根沢口、七五三掛口、荒沢口(羽黒口)、大網口の7つの登山ルートです。

肘折温泉から南に約4kmのところに肘折口の登山道入口があります。大森山、赤砂山、小岳を経由し念仏ヶ原、立谷沢清川橋を通り、千本桜、賽の河原を歩き、月山山頂に到る20kmと、月山の中でもアップダウンの激しい最難関ルートです。

肘折温泉の開湯は807年(大同2年)今年で1,215年目

その云われは、豊後の国から湯殿山詣でに来た源翁という男が、途中、道に迷ってしまった。その際、老僧と出会い、この老僧が月山湯殿山へと案内をしてくれました。老僧は「自分は地蔵菩薩である。100年前にこの崖から落ちて肘を折ってしまった。そこにお湯を見つけその湯に浸かったところたちまち傷が癒えた。この地に住んで知らしめ、多くの人の病気や傷を治してほしい」と言って消えていったというものです。

崖に寄り添うような地蔵蔵へ向かう参道

源翁の名前は片見源右衛門、老僧と出会ったこの崖を「地蔵倉」湯を「肘折温泉」と名付け守り続けました。そして、1390(明徳元)年に、湯殿山までの登拝道を開きました。その子孫は、代々肘折で別当(阿吽院)を務めてきました。7代目が1707年に阿吽院を烏川に移住(烏川は肘折から北に17km)、阿吽院は羽黒派で天台宗、その時地蔵様の社殿も建立されました。その後、1765年、肘折には葉山派で真言宗の密蔵院が入って来ました。密蔵院は、温泉街の現在ある「上の湯」にあったと云われています。

月山への登拝の手順

阿吽院の移住は、肘折は山奥のため、通る行者も少ない。そのため、清水の殿様が仙台や村山方面から最上川を下ってくる多くの参詣者を烏川から肘折に誘導させました。小屋家資料に1709年6月中の2週間に13,000人の行者が通ったとあります。

阿吽院でお祓いを受け、地蔵様に礼拝し、先達を付けて御山に入った。白装束に身をまとい、触れ頭から通行手形を受け、厳しい作法と掟があったとあります。阿吽院や清水の宿場で山に入る支度を整え、先達を付け関所を通る。そして、肘折を経て、月山山頂まで約41kmを歩き登ったということになります。相当なお金がかかり、殿様の清水氏は相当潤っていたということです。

肘折温泉発祥の地「地蔵倉」

「地蔵倉」は肘折温泉の開湯伝説の地です。パワースポットの地として、2018年温泉総選挙の「全国温泉地のパワースポットランキング」で第1位にランクされました。そして、同年「日本の奇岩百景+」にも登録されました。

地蔵倉に上ると下界とは空気間が違う感じがします。そこには、お地蔵様が12体。社殿は100年以上前に建てられたものです。地蔵倉の岩壁は凝灰岩で覆われていて、社殿のそばには地蔵菩薩の石像が安置されています。その岩肌の穴に紙縒りが通れば願い事が叶うと言われます。「縁結び」「子宝」「商売繁盛」などの縁起があり多くの観光客が訪れます。現在は、肘折温泉の亀屋旅館が管理をしています。

温泉街をまもる「薬師神社」

薬師神社の参道

そして、肘折にはお湯を守っている湯坐神社(薬師神社)があります。地蔵倉と同時期に創建されています。7月14日は開湯の日。「開湯祭」として毎年神社入口で神事が執り行われます。湯の神様に感謝し、地蔵神輿の行列にお湯を掛け、温泉街を練り歩きます。

昔「上の湯」が一時枯れてしまった事がありました。村人は困ってしまい、その原因を突き止めようと総出でその湯元を掘ったところ、一つの石にぶつかりました。その石を取り出したところ、待ち望んでいた湯が噴出したのでした。そこで、その石をよく見ると不思議なことに、石が何かの像によく似ていました。

村人たちは、「その石は何かの神様の像に違いない」と固く信じ込んでいました。何の神か突き止めようと、京都の専門家を訪ねてその石を鑑定してもらったところ、「まさしく、薬師如来像である」と言われ、木で如来像の姿を彫ってもらい、その石と共に神社に安置したとのことです。温泉の守り神として、人々の心を安らかにしてくれる神様として親しまれています。

肘折の湯は、今も「肘折36人衆」という湯守が管理

秋葉山石碑・・・秋の字が逆さま!

同じ場所に秋葉山の石碑があります。この云われですが、1709(宝永6)年2月12日に肘折村が焼けました。先ほど説明した三山信仰が盛んな年です。1721年5月にも2軒を残し消失。1728年3月には夜半に肘折村が全焼しました。わずか20年の間に3回も大火があったということは、当時の村人にとっては相当なショックであったようです。そのため、対策として中心部に防火池を掘り、上からも下からも消し止めることができるようになりました。このころから夜回りを行うようになったと言われています。

夜回りは、現在も青年団が毎日行っています。住民は、防火に力を注ぐことだけでは満足せず、神仏のご加護にもすがりました。火の恐ろしさを後世まで伝えようと、高さ3.1mの秋葉山の碑を建立しました。

秋葉山は、静岡県浜松市にある秋葉山本宮秋葉神社で、火伏の神様として有名です。この碑の字「秋葉山」は、松島瑞巌寺の住職、南山和尚が瑞巌寺で修行中に書いてもらいました。よく見ると秋の字が左と右が逆に書かれています。肘折の秋は、紅葉で全山真っ赤になり、それは大火を連想させるもの、よって左と右をわざと逆さに書いたと伝えられています。

大きな絵図に描かれた参詣の様子

出羽三山登拝図(大蔵村所有)

阿吽院は、現在も烏川で八幡神社として建っていて、地元の氏神様として祀られています。神社には阿吽院と片見家の歴史などが書かれている看板があります。また、出羽三山登拝図として、明治時代に描かれた横幅3.5mのとても大きい絵図が大蔵村中央公民館2階に展示されています。最上川で船に沢山の人が乗っている様子、烏川の渡船場で陸では芸者さんたち、大勢の白装束の参詣者が描かれており、大変にぎわっている様子が伺えます。

大蔵村へお越しの際は、是非、大蔵村中央公民館にお立ち寄りいただければ幸いです。

(つづく)

(これまでの寄稿は、こちらから)

寄稿者 小林孝一(こばやし・こういち) 大蔵村 観光プロデューサー

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