苦労を豊かにする

 炭鉱事故で言葉を失い、うつろな時を重ねる人が、言葉のカードを組み合わせ、文章にする練習をしている。「豊かにする」と書かれたカードに、その人は「苦労を」という1枚を組み合わせた。「暮らしを」ではない▲苦労を-豊かにする。それを見て、詩人の吉野弘さんは胸を突かれたという。そう、積み重なる苦労を少しでも豊かなものにしていこうと、人は懸命に生きているのだ、と▲東日本大震災の津波で漁船が流され、避難生活を送った福島県いわき市の男性の回想が、先日の紙面にあった。「苦労を豊かにする」の一文を思い浮かべる▲後日、自分の船が沖で大破しているのを目にして「海で腹を据えて生きてやる」と決心した。操業再開から10年のいま、福島第一原発の処理水の放出をこう受け止める。「漁師だけが外れくじを引かされた」▲苦労したそのぶん、豊かな、実りある人生にしたい。海で生きると決めた人の願いに違いない。それをよそに中国政府は、日本の水産物輸入を全面的に停止するという力づくの策に出た。漁業者は胸のつぶれる思いだろう▲中国を有力な市場とする水産県長崎が受ける打撃も計り知れない。説得は並大抵のことではないが、日本政府がこの衝突に手を打たなければ、苦労は「豊か」どころか「水の泡」になりかねない。(徹)

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