追悼テリー・ファンク 兄ドリー・ファンク・ジュニア、天龍源一郎らがテリーについて語るインタビューが『俺のプロレス Vol.05 検証 激動の1983年』に掲載!

プロレスが一番「妖しい魅力」に溢れていた1983年。激動の模様を、当事者が今、口を開く──。『俺のプロレス Vol.05 検証 激動の1983年』が扶桑社より8月29日に発売された。

── テリーさんは「さよならツアー」で全国を巡り、1983年8月31日、引退試合を行いました。ドリーさんも最後の1週間に帯同し、引退試合ではタッグを組んで戦いましたね。この試合の思い出は?

ドリー テリーをタッグパートナーとして失ったことはとても残念だったね。でもこの時点で彼のコンディションは、確かにそれまでと同じように続けていけるような状況ではなかったんだ。それはずっと一緒にやってきていた私には、よく分かっていたことだった。だから引退は仕方ないことだと思っていたし、納得もしていた。そして、最後の引退試合はとても誇らしい試合だった。

(特集「ドリー・ファンク・ジュニア 1983年を語る2」より抜粋)

さらに本書内では、天龍源一郎やスタン・ハンセンもテリー・ファンクの思い出を語っている(インタビューは亡くなる前の時点で収録)。 今からちょうど40年前、新日マットでは、ホーガンのアックスボンバーに猪木が失神し、長州の噛ませ犬発言から藤波との名勝負が繰り広げられ、カブキの帰国でペイントレスラーブームが巻き起こった。 全日マットでは、ザ・ファンクスが解散する一方、馬場からエースの座を継いだ鶴田が天龍とタッグを組み、最強外国人・ハンセン&ブロディと激闘を繰り広げた。 女子プロ界では、クラッシュギャルズが結成され、翌年に極悪同盟が誕生。 前田日明は、欧州凱旋まもなく新日を離脱しUWFへ。 維新軍は、ジャパンプロレスを旗揚げし、全日マットへ。 そして、あの『週刊プロレス』が創刊される…。 プロレスが一番「妖しい魅力」に溢れていた1983年。 激動の模様を、当事者が今、口を開く。

外国人レスラー初のベビーフェイスとなったザ・ファンクス。1983年当時、外国人レスラーの間では何が起こっていたのか? なぜテリーは引退を表明したのか?

欧州から凱旋、まもなくUWFへ…。1983年当時、新日では何が起こっていたのか? UWFとは何だったのか?

馬場から鶴田へエース継承、鶴龍コンビ結成へ。1983年当時、全日では何が起こっていたのか? ジャンボ鶴田はなぜ最強と謳われるのか?

1983年当時、全女では何が起こっていたのか? 伝説のグループ・ビューティペアなき後、女子プロ界をどう支えたのか?

1983年当時、メディアでは何が起こっていたのか? プロレス雑誌がまさかの週刊化、宿命のライバル『ゴング』との闘争を『KAMINOGE』編集長が直撃!

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