終戦の冬、大雪で行き倒れた校長「助けてくれ」京都の山村に悲鳴の記憶

山内さんが行き倒れとなった現場の付近に立つ大隅さん。「助けてくれと叫ぶ声が聞こえた。必死な様子だった」と思い起こす(南丹市美山町北・かやぶきの里)

 観光客でにぎわう京都府南丹市美山町北のかやぶきの里に、1人の教育者にまつわる痛ましい話が残る。戦後間もない1945年12月、同町中の知井小の校長が大雪で行き倒れとなり、後に息を引き取った。戦前の教育に用いられた天皇の写真「御真影」を府に届けた帰路での出来事だった。地元関係者は「戦争に起因する悲劇」と悼む。

 山内三郎さん。京都府福知山市の出身とされ、閉校した同小には精悍(せいかん)な表情の写真が今も掲げられている。遭難時で50代とみられる。

 同年8月の終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は、軍国主義の一掃などを図る「神道指令」を発出。それに基づいて、御真影や、御真影を飾る奉安殿の撤去が進められた。

 同小でも高台の奉安殿に置かれ、児童が敬礼していた天皇の写真を取り除くこととなった。山内さんは大雪だった同年12月29日、御真影を京都市右京区京北にあった府の機関に届けに行ったという。

 徒歩で同町中の宿舎に帰る途中、夜の闇に包まれたかやぶきの里で遭難した。

 「助けてくれ…」。かやぶきの里に住んでいた大隅重太郎さん(89)=同町中=は、雪交じりの風に乗って届く叫び声を記憶している。「必死な様子だった」と思い起こす。腰まで積もった雪で道が分からなくなった結果、池にはまって身動きが取れなくなったと考えられるという。

 大隅さんは悲鳴が聞こえると父らに言ったが、最初は獣の声だとして取り合ってもらえなかった。「放っておけない」と思い、繰り返し伝えると、父らが外で姿を見つけた。近所の人も手伝って最寄りの家に引き入れ、体をこすって温めた。大隅さんは手を合わせて無事を祈った。

 懸命の介抱で命を取り留めたが、厳しい食糧事情による栄養失調もあり、翌46年3月17日に死去した。

 「故山内三郎校長先生之墓」。同小に近い墓地に墓が立つ。8月に訪ねると、花とシキミが供えられていた。地元の長野光孝さん(82)は「地域でお守りしている」と語る。建てたのは職員や児童だった。同小で教員を務めた父から山内さんについて聞いた同町中の山本隆行さん(93)は「慕われた先生だったようだ」と話す。

 山内さんについて調べた長野さんは「激動する教育への対応で心労も重なっていたはず。まさに戦争の犠牲者と言える」と指摘し、今や知る者もほとんどいない「悲話」に思いをはせた。

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