「W杯に出て」亡き母との約束を心の支えに ラグビー日本代表・李承信、試練越え司令塔として大舞台へ

当時のラグビー日本代表、小野沢宏時さん(後列左から2人目)らと記念撮影する李承信(前列右端)と母の永福さん(同左端)=2008年4月(李東慶さん提供)

 神戸市灘区の篠原公園に、背の高い防球柵が立っている。小学6年生の頃、李承信(リスンシン)はここで一人、日が暮れるまでボールを蹴り続けた。家に帰っても、家族は誰もいなかった。

 乳がんを患っていた母永福(ヨンボク)さんが3年にわたる闘病の末に44歳で他界。父東慶(トンギョン)さん(58)は夜遅くまで働き、2人の兄は大阪の学校に通っていた。東慶さんは家政婦を雇ったが「家に入っておいでと言っても、承信が入らないと聞いていた。寂しかったんでしょうね」と思い返す。

 在日コリアン3世。神戸朝鮮初中級学校では部活動でサッカーに励み、週末は兵庫県ラグビースクールに通った。サッカーのポジションはFW。Jリーグ1部ヴィッセル神戸の育成部門から誘いを受けたが、4歳から兄と一緒に親しんだ楕円(だえん)球とチームへの思いが勝った。ラグビー好きの母の影響も大きかった。

 末っ子で調子に乗りやすい性格だった。小学4年生の時、ラグビーの県大会で3位になって喜んでいると、永福さんに「1位になりなさい」と戒められた。

 その母が亡くなった。現実として受け入れられないまま、1カ月後、自身も病に襲われ、高熱と血尿で運ばれた。急性糸球体腎炎。ラグビーができない可能性を告げられた。

 試練の連続。支えは母との約束だった。「2019年のワールドカップ(W杯)に出てほしいな」。19年はまだ大学1年生で、小学生だった承信は「それは無理やろ」と首を振ったが、忘れることはなかった。

 病の完治までに半年以上を要したが、日常を取り戻すと、今度は永福さんの姉と妹が世話をしてくれた。

 尼崎市の伯母が毎日のように昼食用の弁当を作り、自宅には毎週、五女だった永福さんの姉妹が交代で来てくれた。「母親を感じられるのが、おばさんたちの存在ですから」と長女の静子さん(63)=姫路市。こぞって試合の応援に駆けつけ、愛情を注いだ。

 「だから承信はラグビーを中途半端にできない」と東慶さん。中学3年の時、兵庫県スクール選抜の主将として全国制覇を成し遂げると、大阪朝鮮高級学校で高校日本代表、20歳以下のジュニア・ジャパンでも主将を務め、結果で恩を返し続けた。

 強豪の帝京大に所属していた20年春。日本代表を夢見て強国ニュージーランドへの留学を計画し、中退を決めて退路を断ったが、ここで再び苦難が訪れる。

 新型コロナウイルス禍だった。

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 ラグビーのW杯フランス大会が8日、開幕する。神戸生まれ神戸育ちの22歳、李承信(コベルコ神戸スティーラーズ)は、初の代表入りからわずか1年で日本の司令塔にのし上がった。家族、そしてルーツ。躍進の鍵を握る新星の、力の源泉をたどった。(有島弘記)

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