“脇ん男”の意地が激突 長崎・脇岬町「けんか祭り」 深刻な担い手不足の課題も【ルポ】

熱気あふれるけんかを繰り広げる“脇ん男”たち=長崎市脇岬町

 血気盛んな男たちが、意地と誇りをぶつけ合う長崎市脇岬町の通称「けんか祭り」。伝統の「脇岬祇園祭」の最終盤に行われるものだが、令和の時代に、そんなバイオレンスな祭りが本当に現存しているの…? 一体何のために…? コロナ禍を経て、4年ぶりに開催されると聞き、どんな祭りなのか取材した。

■受け取り渡し
 関連書物などによると、「脇岬祇園祭」が始まったのは250年以上前の1785年。時は江戸時代。流行病がまん延し、村人が神社を建てて盛大に祭りをすると、病が収束したことがきっかけとされる。
 通常2日間の日程で、八坂神社から脇岬神社まで大名行列で練り歩く「お下り」と八坂神社に戻る「お上り」が行われる。現在、五つの町を三つに分け、祭りの世話役である「当番町」を交代で担当。祭りの最後に、来年の当番町に引き継ぐ「受け取り渡し」という儀式があるのだが、そこで毎年「渡す」「渡さない」のいさかいが勃発。それが「けんか祭り」とも言われる由縁だ。

■見どころ満載
 8月11日。記者は、かつて経験したことがない緊張感に包まれながら現場へ。祭りの始まりを知らせる「寄せ太鼓」と笛の音が町中に響く。脇岬を望む八坂神社からみこしが運び出された。約1キロ離れた脇岬神社までの行列が始まった。
 「けんか」のイメージを抱いて取材に来たが、祭り自体は厳かで見どころが多い。ほら貝の音に合わせ、殿様の着物を入れる「挟箱(はさみばこ)」(重さ約10キロ)などの担ぎ手を交代する際の舞いの所作「下馬(げば)」や、手のひらに太い棒を立てて道化しながら歩く「バンバ」など、実に興味深い。
 路地で待っていた住民らが金色のみこしの下をくぐっている様子が見えた。聞けば、家内安全や健康を祈るそうだ。腰をかがめてくぐった70代女性は「人が久しぶりにこんなに集まってうれしい」と目を細めた。

■禍根を残さず
 例年2日間開催だが、今年は1日に短縮。行列は脇岬神社で折り返し、地元の住民たちが待ち構える中、担ぎ手たちが威勢良く坂を駆け上がり、みこしを八坂神社に納めた。「これで終わり? まさかね」とそわそわしていると、やがてクライマックスが訪れた。「受け取り渡し」だ。
 住宅がひしめく路地には既に大勢の見物客が集まっていた。塀の上や住宅の2階でカメラやスマホを構えている人もいる。「お手を拝借、打ちましょう、祝うて3べん、大漁祈っていっさんさんのさん」。行列の先導者や祭りの責任者「元方」が当番町の引き継ぎを告げた。笛や太鼓の音が鳴り、やおら男衆が動き出し、もみ合いに発展した。
 浴衣や帷子(かたびら)を身にまとった男たちが入り乱れ、怒鳴ったり飛びかかったり。総勢60~70人ぐらいはいるだろうか。素手で殴り合う男たちに「いけいけ!」「やれ!」と周囲も興奮気味。約10分後、バンバが割って入ると、何事もなかったように“脇ん男”たちの「けんか」は終わった。
 「禍根を残さない」のがルール。長く祭りを見てきた男性は「祭りが終わると何事もなかったようになる。それがいい。奇祭」と笑った。互いに分かり合っているからこそ殴り合えるのかもしれない。
 4年ぶりの「けんか」とあって地元は活気づいたが、担い手不足は深刻。当初は来年以降の開催を危ぶむ声も出た。祭りに参加するため北海道や福岡から駆けつけた男性は「やっぱり地元は最高」。他の参加者たちも顔を上気させながら「生きがい」「生活の一部」「地元の誇り」…と口々に語った。
 古里への熱い思いやつながりがあるからこそ、時代を超えて受け継がれてきた「祇園祭」。これからも続いてほしい、と思う。

© 株式会社長崎新聞社