「原発大事故、つぎも日本」ある住職の悔恨の念を伝える小さな施設 核被害の悲惨さを福島から発信し続ける意味とは

原発事故を防げなかった悔恨の思いを記した石碑の前で、早川篤雄さん(手前)と安斎育郎さん=2022年12月8日、福島県楢葉町(撮影・中村靖治)

 2011年の東京電力福島第1原発事故で一時、全ての町民が避難を強いられた福島県楢葉町。山あいの宝鏡寺に「伝言館」という小さな施設がある。中に入ると、壁に飾られた「原発大事故 つぎも日本」のメッセージが目に飛び込んでくる。原発事故に関する説明や、事故後に撮影した町の写真。そして広島と長崎の原爆被害や、ビキニ水爆実験のパネルもある。
 原爆投下から78年。第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件は、来年でちょうど70年を迎える。原発事故から12年が過ぎた福島にある伝言館の意味とは。(共同通信=堺洸喜)

 ▽届かなかった声

 伝言館は、昨年12月29日に死去した宝鏡寺住職の早川篤雄さん=享年(83)=が2021年、立命館大名誉教授の安斎育郎さん(83)と開いた、核被害を学べる場だ。
 伝言館創設のきっかけは、原発の危険性を訴え続けたにもかかわらず、事故が起きてしまったことへの2人の悔恨の念だった。
 早川さんが原発の安全性に疑念を抱いたのは、福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)に続く、福島第2原発の候補地に楢葉町が浮上した1960年代のことだった。勉強会に参加したときに、大学教授から「原発から放射性物質が飛散すれば非常に危ない」と聞き、衝撃を受けた。「そんな原発を、生まれ育った楢葉町に持ってきてはいけない」。早川さんは、住民有志を集め勉強会を開くようになった。

取材に応じる早川篤雄さん=2022年12月8日、福島県楢葉町(撮影・中村靖治)

 1973年、当時安斎さんが助手を務めていた東京大の研究室に一本の電話が入った。「原発の危険性について、科学者として公聴会で意見を言ってほしい」。早川さんからだった。
 安斎さんは東大原子力工学科の1期生。原子力の専門家ながら、日本の原発政策の問題点を認識し、批判していた。
 2人は福島市で開かれた第2原発の公聴会で反対の意見を述べたが、その声は反映されず、第2原発は楢葉町と富岡町に建設が決まった。早川さんらは、75年に第2原発1号機の設置許可取り消しを求め、福島地裁に提訴。早川さんは事務局長を務め、安斎さんも資料の作成などを手伝った。この裁判では、84年に福島地裁が早川さんらの請求を棄却。90年に仙台高裁が、92年に最高裁が福島地裁判決を支持し、早川さんらの主張を退けた。
 第2原発の工事は着々と進み、82年には1号機の運転が始まった。一方、世界では79年に米国のスリーマイルアイランド原発、86年に旧ソ連のチェルノブイリ原発と大事故が相次いだ。早川さんは原発事故が日本でも起こり得るのではないかという不安を募らせていた。「原発大事故、次は日本」。周囲からは「原発坊主」と揶揄されることもあったが、危険性を訴え続けた。
 03年からは、元福島県議の伊東達也さん(81)と共に、住民が東電と交渉する場を定期的に設けた。05年以降は「福島第1原発が巨大津波に耐えられない」として、再三にわたり国や東電に津波対策を講じるように求めてきたが相手にされなかった。「今日もダメだった」。早川さんは交渉から帰宅するたび、妻の千枝子さん(80)に漏らしていた。

取材に応じる安斎育郎さん(左)と早川篤雄さん=2022年12月8日、福島県楢葉町(撮影・中村靖治)

 ▽2人の「悔恨」

 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。安斎さんは京都市の喫茶店にいて揺れを感じた。帰宅してテレビを付け、東北地方の甚大な被害を目にする。「原発が危ないかもしれない」。慌てて早川さんに電話を何度もかけたがつながらなかった。
 翌12日午後3時36分、福島第1原発1号機で水素爆発が起きた。伊東さんはその映像を、いわき市にある自宅のテレビで見た。しばらくすると、玄関から突然大きな音が聞こえた。ドアを開けると、そこには早川さんが立っていた。
 楢葉町を含め、原発から20キロのエリアがすっぽり立ち入り禁止になった。早川さんは、しばらく伊東さんの元に身を寄せた。
 震災から約10日後、ようやく安斎さんの電話に早川さんが出た。「和尚、申し訳ない」。安斎さんは、科学者として原発の危険性を指摘しながら、事故を防げなかったことへの悔恨の念が思わず口から出た。「安斎先生に謝られると、こっちが申し訳なくなる」。電話越しに聞こえる早川さんの声は震えていた。
 いわき市での避難生活を余儀なくされた早川さん。避難先では一日中、家の中で過ごすことが増えた。「反原発を訴えてきたこれまでの時間は何だったのか…」。震災や原発事故の報道を見るたびに、悔やんでいた。

東京電力福島第1原発事故に関する資料などが展示されている伝言館=8月8日、福島県楢葉町(撮影・堺洸喜)

 ▽悔恨の思い

 2015年9月、楢葉町の避難指示が解除。早川さんはふるさとでの生活を再開した。安斎さんは18年夏、専門家として原発事故を防ぐことができなかったという悔恨の思いをつづった詩を手紙で早川さんに送った。
 「電力企業と国家の傲岸に 立ち向かって40年力及ばず 原発は本性を剥き出し ふるさとの過去・現在・未来を奪った 人々に伝えたい 感性を研ぎ澄まし 知恵をふりしぼり 力を結び合わせて 不条理に立ち向かう勇気を! 科学と命への限りない愛の力で!」
 「これはいい!」。早川さんは感銘を受けた。「この詩の内容を具体的に展示して、人々に伝えなければならない」との思いから、2人は伝言館の創設に向けて動き始めた。

伝言館にある早川篤雄さん直筆のメッセージ=2022年12月8日、福島県楢葉町(撮影・中村靖治)

 2人は「同じ惨劇を二度と繰り返さない」との決意を新たに、震災からちょうど10年の2021年3月11日、宝鏡寺に伝言館を設立した。同じ日に披露された境内の石碑には、安斎さんが早川さんに送った詩と2人の名前が刻まれている。
 早川さんの提案で、原発事故だけではなく、1945年8月の広島・長崎の原爆や、1954年3月に米国のビキニ水爆実験で被ばくした第五福竜丸の資料を収集した。
 原爆で背中が焼かれた少年の写真とともに「核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません」という被爆者のメッセージを紹介。ビキニ水爆実験を記録した第五福竜丸の当直日誌の展示もあり、核被害の惨状を伝えている。

伝言館の広島・長崎の原爆被害についての展示=2022年12月8日、福島県楢葉町(撮影・中村靖治)

 ▽揺るがぬ信念

 昨年11月、原発事故について学ぼうと来館した人に、早川さんが語りかけた。「(国は)原発事故が起きた地域や人々の暮らしをみじんも考えていない」。事故前から原発の危険性を指摘していたにもかかわらず国や東電に相手にされなかったことや、事故で避難生活を余儀なくされたこと、ふるさと楢葉町が一変したことへの怒りを込めた。時折、声を荒げて国や東電の事故責任を厳しく追及する早川さんの話に皆が聞き入った。
 昨年12月8日、早川さんと安斎さんを取材した。歩行車を押して歩く早川さんの姿が1カ月前よりも弱々しくなったように感じた。しかし「(事故の原因は)電力企業と国家の傲岸という一言に尽きる」と厳しく糾弾する様子は変わっていなかった。この翌日、早川さんは肺炎でいわき市の病院に救急車で運ばれ、29日亡くなった。

来館者に原発事故の被害について説明する早川篤雄さん(奥)=2022年11月3日、福島県楢葉町(撮影・堺洸喜)

 ▽遺志を継ぐ

 伝言館は早川さんの死後も、遺志を継ぐ有志らによって存続している。安斎さんも月に1度程度、京都から訪れ、悲惨な核被害を繰り返さないように、展示のアイデアを練り続けている。「相棒がいなくなったから、当面は僕の思いでつないでいかなければ」。
 世界ではロシアのウクライナに対する威嚇をはじめ核兵器の脅威が高まる中、今年、被爆地広島でG7サミットが開かれた。核をめぐるさまざまな動きがある今、核兵器も原発もない平和な社会を目指した早川さんの遺志は、伝言館から発信され続けている。

宝鏡寺敷地内にある伝言館=2022年12月8日、福島県楢葉町(撮影・中村靖治)

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