「まじめにやったところで邪魔しか入らない」京アニ事件、青葉被告の軌跡(前編)

中学校時代の青葉真司被告(卒業アルバムから)

 36人が亡くなった京都アニメーション放火殺人事件の公判では、殺人罪などで起訴された青葉真司被告の被告人質問や家族の供述調書の朗読があり、これまで詳細が不明のままだった被告の前半生が明らかになってきた。戦後最悪と呼ばれる放火殺人事件に至るまで、被告はどのような人生をたどったのか。関東地方に住む平均的な核家族の一員として生まれた被告が、両親の離婚をきっかけに父子家庭での虐待や貧困を経験、精神的不調も加わって社会的な適応が難しくなり、家族や他者への憎悪を蓄積させていく様を追った。(共同通信=武田惇志、真下周)

事件発生当日、放火され煙を上げる京都アニメーションの第1スタジオ=2019年7月18日、京都市伏見区

 ▽5人家族
 青葉被告は1978年5月、埼玉県浦和市(現さいたま市)で生まれた。トラック運転手の父親、専業主婦だった母親、2学年上の兄、1学年下の妹との5人家族で、同市で暮らした。
 母親の供述調書によると、子どものころの青葉被告は「かわいらしい元気で活発な子で、コミュニケーションを取って友達をつくることができた」。学校の成績は普通で、母親に褒めてもらうために家事の手伝いをして「お母さん、やったよ」と得意げに報告するようなこともあった。とりわけ兄とは仲が良く、兄の供述調書によると、一緒に「スーパーファミコン」のゲームをしたり、アニメ「ドラゴンボール」をテレビで見たりしていたという。被告も、家族でディズニーランドへ旅行に行ったり、軽井沢に行ったりした思い出を被告人質問で語っている。

被告人質問で手ぶりを交えて受け答えする青葉真司被告(イラスト・田村角)

 しかし、主婦だった母親がミシン販売の営業の仕事をするようになったことがきっかけで、幸せだった家庭に次第に影が見え始める。営業がうまくいっていることに父親が嫉妬するようになり、外回り先で浮気していると疑われ始めた。口論が始まり、平手でたたいてくるようになった。いわゆるDV(家庭内暴力)だ。一時、青葉被告の妹を連れて避難したが、父親は知人の家を見回るなど執着し、逃げ場がなくなって離婚を決めた。被告が小学3年生(9歳)だった1987年のことである。母親が家を出て、子どもたち3人の親権は父親が持った。母親はその後10年以上、子供らと連絡を取らなかった。

焼け焦げた京都アニメーション第1スタジオのらせん階段=2019年7月20日

 ▽虐待と貧困
 父子家庭になると、父親は次第に兄と青葉被告に対して厳しく当たるようになり、冬に裸で2人を立たせて水をかけたり、眠らせなかったりした。2人で「父から逃げたいね」と語り合って母親の居場所へ行ったが、母方の祖母に「もう、うちの子ではない」と言われ、会わせてもらえなかったこともあったようだ。被告は虐待について「日常茶飯事すぎて覚えていない」と話している。虐待は、兄弟2人の体が大きくなるまで続いた。
 2人は中学に入学すると、柔道部に入った。青葉被告は大会で準優勝したこともあったが、父親から理由もなく「準優勝の盾を燃やしてこい」と言われて燃やしてしまったという。被告にとって父親は「理不尽な人間」で、異論を唱えることはできなかった。「そこ(理不尽な行為)に理解を求める人間ではないので。ああしろと言われたらああするし、こうしろと言われたらこうするし、それだけ」と法廷で語っている。
 父親は青葉被告に「おまえはやればできるタイプの人間だ」とか「大物になるか乞食になるかどっちかに一つ」と言い、好きなことは徹底的にやりなさいという教育方針だった。一芸に秀でればそれなりになるから、という理由である。被告は小説づくりに没頭した時期があったが、父親の影響を認めている。
 そのころ、父親は無職になって生活保護を受け始めるようになった。糖尿病だった。青葉被告が中学2年のとき、家賃が払えなくなって引っ越しをすることになり、中学を転校。転校先の中学に柔道部はなく、続けることができなくなった。「柔道を続けたい。友達と離れたくない。なんで自分ばっかり」と転校について不満を漏らしていたという。

青葉真司被告

 ▽性的虐待
 青葉被告は転校後、不登校になった。妹も不登校となり、フリースクールに通うようになった。妹はスクール生活が楽しくなり、被告を誘った。「変わった先生がいて、その人になついた記憶がある」と語り、勉強について興味を引き立てられたと振り返る。友達とドッジボールに興じることもあったという。兄との仲は依然として良好で、一緒に「ファイナルファンタジー」のゲームをしたり、父親が購入したCDコンポで「CHAGE and ASKA」の音楽を聴いたり、また兄妹3人でドラマ「101回目のプロポーズ」を見たりしていた。
 そのころ、父親の虐待は妹に向かうようになった。妹は中学2年のころ、「家で父と2人になったとき性行為をさせられました。3~4カ月で何度かありました」と打ち明けている。父親が妹に対して好みの食事を出したり、お菓子を買ったりするのを見た2人の兄は嫉妬したが、「私だって父に体を触られて嫌な思いをしている」と言い返すと、被告は父親に詰め寄って胸ぐらをつかみ、兄と「何をやっているんだ」と問い詰めたとのエピソードがある。
 父親の酒癖は悪く、青葉被告は「人の短所をあげつらって、ぐだぐだ言うのが好きだった。(聞くのが嫌で)家に帰らなかった」と語る。1年ほど無視した時期もあった。
 父親が無職だったため、新聞配達のアルバイトを始めた。「だが、寝坊を3回して怒られて、もう駄目だと言われた」ため、2カ月ほどで辞めた。ただ従業員には面倒見のいい人が多く、しばらく付き合いは続いたという。
 また青葉被告によると、中学のころから他者から攻撃されるような幻覚・幻聴が始まり、このため人混みをよけて通学するなどしていたという。幻覚・幻聴は高校時代の最初の方まで続いたとしている。

 ▽文化的関心
 中学卒業後、浦和市内の定時制高校に入学した。進学する気はなかったが、兄やフリースクールの勧めがあったという。日中は埼玉県庁内のメールボーイ(郵便物などの逓信係)として働き、学校に通う生活で、妹は「忙しそうでしたが、楽しそうでした」と青葉被告の様子を述懐する。青葉被告も仕事について「いろんな人がいたのでやりがいがあった」と語るように、いい時期を過ごしたようだ。高校も卒業まで4年間、皆勤で通した。無職だった父親も再就職してタクシー運転手となり、兄弟らのアルバイト収入もあって家計に余裕ができ、少し広い家に引っ越した。
 そのころ被告が関心を持っていたのは音楽や音響だった。LUNA SEAやGLAYなどのヴィジュアル系バンドを聴き、ギターやベース、シンセサイザーを買って弾いていた。スピーカーにもこだわりを持った。楽器を買うためにガソリンスタンドでのアルバイトもかけ持ちした。また、年上の女性と映画やカラオケにデートに行くような経験もした。
 また、京都アニメーションに興味を抱くきっかけが生まれたのも、高校時代の友人関係からだった。アニメ好きの「結構、オタクの人」だった友人から、「ONE~輝く季節へ~」というゲーム作品を勧められたことに触れて、青葉被告は法廷でこう語った。「泣きゲーの元祖で、影響のある作品だった。『ONE』の後続作品をアニメ化したのが京都アニメーションで、『ハルヒ』(小説「涼宮ハルヒの憂鬱」)をアニメ化したのが京都アニメーション。『ONE』を見なかったら『ハルヒ』も見ていない。そうなると小説も書いていなかったと思います」

大阪拘置所に入る青葉真司容疑者を乗せた車(中央)=2020年5月27日

 ▽父親の死
 高校卒業後、「ゲーム音楽を作る人になりたい」と東京都新宿区のコンピューター関係の専門学校に入学した。新聞奨学生として寮に入り、仕事をしながら学校に通い、生活費は全て自分でまかなった。しかし教育内容について「時間をかけて教えすぎている」と感じ、仕事で時間のない生活のために不満を募らせ、半年後に辞めてしまった。「同級生から定時制卒なのをばかにされた、と言っていた」と妹は明かした。
 楽器は売ったり譲ったりして見切りをつけ、シンセサイザーは破壊した。兄によると、「自分に音楽は合っていない」とも言っていたという。その後、コンビニで働き始め、隣接する春日部市で独り暮らしを始めた。
 青葉被告が21歳の1999年12月、父親が亡くなった。高校4年のときに交通事故に遭ってタクシー運転手を廃業。入退院を繰り返しており、家で妹が世話をしていたが、ある日、妹が仕事から帰宅すると布団の中で亡くなっていた。妹によると、駆けつけた被告は「前は元気だったのに」と泣いたという。死因は心不全だった。ただ「あれだけけんかした仲で、最後の最後におまえの葬式には絶対に出ないと通告していた」として、葬儀には出席しなかった。
 妹を通して連絡があり、離婚した母親も駆けつけた。再会は12年ぶりで、母親は子供ら3人が「すさんだ目で見てきた」と振り返る。青葉被告は「いまさら出てくるのはあり得ないだろうという感じでした」。被告と母親は、ほとんど会話を交わさなかったという。

検察側の証拠調べを聞く青葉真司被告(右から3人目)(イラストと構成・田村角)

 青葉被告は母親に対して以下の心境を述べている。「自分は(母親に)手がかかると言ってかなり面倒くさがられていた。母は自分の好きなことしかやらない。兄と妹だけかわいがった」「元々自分はおやじに育てられた気持ちがあって、母に世話になった覚えはない」

逮捕され京都・伏見署に入る青葉真司容疑者=2020年5月27日

 ▽下着泥棒
 コンビニは複数の店舗で働き、最も長い所では7年続いた。店長が新人の育成をせず、「あまりにも仕事を押しつけられ、いくらなんでもあり得ない」と不満を募らせて辞めた。それから単発で派遣の仕事をいくつかしたが、「疲れ果てちゃって、何も行く気にならずに辞めました」。生活保護を受けようと春日部市役所を訪れたが、「そのまま働いてください」と窓口で断られた。半年ほど無職が続き、生活費が払えなくなって水道も止まり、公園の水で洗濯をしたり、パンを万引したりして暮らしたという。
 28歳だった2006年8月、初めて事件を起こす。下着泥棒をして女性の口をふさいだとして警察に逮捕されたのだった。下着泥棒は「そこそこやっていた」と言い、理由は「性欲に困っていたというのがあります」と語った。
 母親は面会に行ったが、青葉被告は会おうとしなかったので、妹と連れだって行った。被告は、面会室で妹を見て申し訳なさそうな顔をしたが、続いて母親の姿を確認するなり「何しに来た。それはないだろう」と怒って出ていったという。母親が選任した弁護士も勝手に解任してしまった。
 裁判は終始投げやりな態度で、「コンビニでいいように使われた」「全部うまくいかない」「刑務所に入れてくれ」と言い、裁判官からは「人生をまじめに考えなさい」と怒られていた。傍聴した母親は「(裁判官が)本気で諭そうとしているように見えた」と語るが、青葉被告には響いていないようだった。本人は「何も考えなくて済む」という理由で、刑務所に行きたがったらしい。
 青葉被告は2007年3月に執行猶予判決を受けた。釈放後は、茨城県にいる母親の家に兄と一緒に身を寄せた。母親は再婚していた。約20年ぶりの同居だったが、うまくはいかなかった。「旦那さんは他人以外の何物でもなかった。何かにつけて優位に立とうとする。反発し、折り合いが悪くなった」。母親によると、再婚した夫が酔っぱらって「おまえに夢はないのか」と問いただすと、被告がかっとなり、「自分は犯罪をしたからやりたいことをやる立場にない」と早口でまくしたてたことがあったという。結局、同居から半年後、「仕事を見つけた」と言って家を飛び出してしまった。
 それから茨城県つくばみらい市で派遣労働者として寮に住み、工場で働いたが数カ月で辞め、レンタルオフィスでの生活を経て、当時あった勤労者向けの雇用促進住宅(茨城県常総市)に住み始める。2008年12月のことだ。仕事は定まらず、転々としていた。当時起きた秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大元被告に、「底辺の人間」として共感した。人ごととは思えず、法廷で「加藤被告は母親に冷たい仕打ちを受けていた。自分も親にあまりかわいがられず、何をやってもうまくいかない部分があった」と述べた。

 ▽執筆に没頭
 「ハルヒ」と出会ったのはそのころで、母親から週に2、3千円の現金や食料品の支援を受けながら、小説を書くようになったという。「ハルヒ」の影響からか、書いていたストーリーは「女子高生がキャピキャピするもの」だと母親に明かしている。人と関わらず身を立てられるかもしれないと、ライトノベル作家を目指して執筆にのめり込んでいった。
 その一方で、申し込んだ福島原発の仕事を断られ、金銭的に苦しくなって自殺を考えるほど追い詰められた。そんな中、ネット掲示板上で恋愛感情を抱いていた相手から「レイプ魔」と言われたのをきっかけに、部屋の窓ガラスを割り、パソコンを破壊した。そして2012年6月に茨城県内のコンビニに押し入り、包丁を店員に突きつけ、2万1千円を強奪した。34歳のときだった。
 何が犯行に駆り立てたのか。青葉被告は、当時働いていた郵便配達のアルバイトを辞めたばかりで、兄が前科を職場に漏らしたと思い込んだという。被告は「まじめにやったところで邪魔しか入らない」と激怒した記憶を語る。その時点で無差別殺人を考えたが、心の中でブレーキをかけた。その理由について「小説にどこか思いがあった。希望になる。最後のつっかえ棒だったと思います」と述べた。
 3年6月の実刑判決を受けた。何かと関わりや支援を続けてきた母親と兄妹は「もう、これ以上は無理」と心が折れてしまい、以降は連絡を取らなかった。2度目の事件の公判には身内は誰一人傍聴に来なかった。青葉被告は天涯孤独に陥った。 (後編につづく)

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