ボーダーフル・ジャパン 第5回 「県境を越え、鹿児島に行く」

鹿児島県最初の駅、
財部駅!

たぶん1973年、小学校5年生の頃だったろうか。志布志の旅で気をよくした私は、ある日、鹿児島に行くことを思いたった。宮崎市には両親と何度か行ったことがある。が、鹿児島市はない。時刻表をみれば2時間とちょっと。朝に出れば、普通列車でも日帰りできる。

日曜朝、都城駅に向かう。日豊本線で2つ目の五十市を過ぎれば、県境を越え、もう鹿児島県の財部駅だ。実は関之尾に行くのも、ここからタクシーが近い。

(関之尾の話は、こちらから)

隼人駅からの錦江湾、そして、桜島の風景が好きである!

山中をゆっくり進み、霧島神宮、国分を過ぎると、吉松へと向かう肥薩線の始点、隼人駅に到着。ここから錦江湾の絶景が広がり、桜島が堪能できる。私はこの車窓から見る桜島のかたちが一番思い出深い(理由はいずれ明らかにする)。

ところで市の中心は鹿児島駅だとばかり思いこんでいた。駅に降り立ち、その殺風景に驚く。ここは本当に都会なの? だが宮崎にもない風景が目の前に広がる。路面電車だ。乗ってみよう。

初対面、路面電車が走る街

鹿児島・谷山停留所
~日本最南端の電停~

しばらくすると大きな建物が現れてきた。市役所を過ぎ、いづろ通、天文館。そう、中心はここだ。そして鹿児島のターミナルが西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)であることを知った。確かに、都城でも西都城駅がまちの中心に近い。

私はこの日から市電マニアにもなった。もっとも鹿児島市電は翌年から乗継制度が導入され、循環線は廃止、3路線に統合された。1986年には清水町と伊敷町の路線が廃止され、鹿児島駅から西駅経由の郡元行き、もしくは武之橋経由の谷山行きの2路線となり、今日に至る。現在のように、電車が車より優先されていたら、路線廃止はなかったろうに。多くのまちで市電が消えていったのと同じ理由だ。

住まう街の下見のように…

日本最南端の鹿児島市電(1912年開業)だが、当時はなんと8路線(臨時を除く)もあったようだ。市役所前から分岐し、西郷どんが最期を遂げた岩崎谷を通り、清水町へと向かう。終着の電停で折り返す車両に座っていると、掃除のおばさんが「乗り過ごし」と思ってか、「今度は間違わないようにね」と言葉をかけてきた。電車は清水町から清水町行き。天文館から西駅を通り、郡元から武之橋経由で天文館へと回る循環線。(当時はなかった)大久保利通の像もたつ加治屋町から分岐し、伊敷町へと向かう路線もあった。何よりの衝撃は郡元電停の先から専用軌道となり、国鉄とも並走する谷山線。

3系統に整理された頃の鹿児島市電

興奮冷めやらず、都城に戻ったころ、日は暮れており、両親も心配していた。だが鹿児島との縁はまだ始まっていない。数年後、谷山で暮らすことになるなどと想像できるはずもなく。

鹿児島市電「系統図」変遷

<8系統時代>

<3系統時代>

<2系統時代>

(これまでの寄稿は、こちらから)

寄稿者 岩下明裕(いわした・あきひろ) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授

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