日本のサポーターよ、原点に戻れ(下)スポーツの秋2023 その6

林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・サッカーのサポーター、頻度と騒ぎの規模において、イングランドが図抜けてひどかった。

・フーリガンが跋扈した背景は、若者の深刻な失業問題でストレスのはけ口を酒に酔って暴れる行為に認めている。

・日本サッカー、代表サポーターもマナーの良さで世界中から賞賛されているので、迷惑系もどきの「なんちゃってフーリガン」がいる場所などない。

1985年5月29日。

ベルギーの首都ブリュッセルにあるヘイゼル・スタジアムにおいて、UEFA(欧州サッカー連盟)チャンピオンズカップ決勝戦が行われた。

カードはイングランドのリバプール対イタリアのユベントス。6万人収容の大きなスタジアムはほぼ満席で、観客の多くの部分を双方のサポーターが占めていた。

この当時イングランドの一部サポーターには、すぐに暴力沙汰を起こすとの悪評がついて回っており、そうした連中はサポーターではなくフーリガンと呼ばれていたことは、前回お伝えした通りである。

ただ、フーリガンという存在はイングランドに限られたものではなく、サッカーが盛んな国では、しばしばこうした騒ぎが起きていた。頻度と騒ぎの規模において、イングランドが図抜けてひどかったことも事実だが。

この試合が「中立国」ベルギーで開催された理由も、これでお分かりいただけると思うが、なおかつ主催者側は、双方の応援席を急増のフェンスで区切っていた。

ところがキックオフのおよそ1時間前(現地時間の午後7時頃)に、リバプール側の一部がこのフェンスを押し倒してユベントス側に殴り込みをかけたのである。

乱闘騒ぎから逃れようと、多くのサポーターが塀際に押し寄せた結果、将棋倒しとなった。

さらに多くがフィールドに飛び降りて逃れたが、リバプール側は、長さ数メートルもの角材(壊したフェンスの材料)を振るってイタリア人を追いかけ回す。一方、イタリア側は一人が拳銃を乱射。

こうした結果、死者39人、負傷者400人以上という大惨事となってしまった。

ブリュッセル市警では手に余ると見て、武装憲兵隊が出動し、どうにか鎮圧したのだが、驚くべき事に、それでも試合が行われた。

多数の救急車とヘリコプターが出動し、重傷者を市内の病院に搬送した他、遺体は急増のテントにひとまず安置され、1時間30分遅れでキックオフとなったのである。

報道によれば、当時ユベントスを率いていたジョバンニ・トラバットーニ監督は試合中止もやむを得ない、と主催者側に進言したが、

「ここで試合を中止したら、暴動が再燃する」

との判断で強行されたという。

結果は、日本でも有名な「将軍」プラティニ(元フランス代表。後に代表監督)がPKを決めて挙げたゴールを、イタリアのお家芸であるカテナチオ(金庫の鍵)と称されるディフェンスで守り抜いたユベントスが1-0で勝利。

ユベントスはUEFAチャンピィオンズカップ初優勝を成し遂げたのだが、もはや試合結果とか、初優勝がどうとかいう問題ではなくなっていた。決勝点を挙げたプラティニ自身、

「生涯ただ一度、なんの喜びも感じない勝利であった」

「あの試合は正常ではなかった。今でも犠牲者とその遺族の方々のことが頭から離れない」

などと述懐している。

事態を重く見たUEFAは、事件直後、イングランドの全クラブを無期限で国際試合から閉め出すと発表したが、関係各方面との話し合いにより、リバプールに対しては10年間、他のクラブに対しては5年間の出場禁止処分が下された。

冒頭で述べたように、事件は1985年のことなので、1990年にはイングランド勢に対する処分が明け、翌91年にはリバプールも復帰が認められている。

この事件は「TV中継」されていたため、暴動に加わった者の特定も比較的容易で、英国の警察によって25人が身柄を拘束された。彼らは裁判を受けるため、軍用機でベルギーに移送されたが、どういうわけか傷害致死ではなく過失致死傷で裁かれ、刑罰も最高で懲役3年という軽いものにとどまっている。

一方では、警官隊を指揮していた警備責任者らが、フーリガン対策に不慣れであったとは言え、重大な不手際があったとして訴追され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

言うまでもなく、衝撃を受けたのはサッカー界にとどまらなかった。当時のサッチャー首相は事件に対して、

「グレイト・シェイム」

という最大級の嘆きの表現を用い、イタリアとベルギーに対して公式に謝罪した上で、警察の権限強化や、スタジアムへの酒類の持ち込み禁止など、対策を打ち出している。

ユベントスはイタリア北部の工業都市トリノを本拠地としているが、当時のみならずヴァチカンでも追悼ミサが開かれた。

各国のマスメディアも、このようなことになったのは、イングランドのフーリガン対策が甘すぎたからだ、との論調で埋め尽くされた。

これに応えて、各クラブがフーリガンの淘汰に乗り出したのはもちろん、選手たちもイングランド・サッカーの名誉を回復しなければ、という意識を共有しはじめたらしい。

1990年のワールドカップ・イタリア大会においてイングランド代表は、準決勝で西独にPK戦で敗れ、3位決定戦では地元イタリアに敗れて4位となったのだが、一度も故意の反則を犯さない、という戦いぶりを見せ、世界中のサッカーファンから賞賛されたのである。

もともとイングランド。サッカーは激しく体をぶつけ合うボディ・コンタクト(肉弾戦)をその特色とするのだが、その分ルールには忠実である。南欧や中南米の選手が、タックルで倒された際など、わざと痛そうにのたうち回るようなことに対しては、露骨に嫌悪感を示す気風さえあった。

イギリス人のレフェリーと言えば「厳格で恐れを知らない」ことで定評があるし、要は、一部の愚かな人たちのせいで、イングランドのサッカー界全体が大きな痛手を被ることになった、という図だったのだ。

前回、私が浦和レッズを天皇杯から閉め出される状況に追い込んだ一部サポーターを「なんちゃってフーリガン」と評した理由も、ここまで読まれた方にとっては、すでに明らかではないだろうか。

ひとつには(賞賛あるいは正当化するつもりは毛頭ないが)規模も過激さも「本家」には遠く及ばないということと、もうひとつは、背負っているものが違う、ということだ。

イングランドでフーリガンが跋扈した背景について、昔から言われていたのは、若者の深刻な失業問題で、ストレスのはけ口を酒に酔って暴れる行為に認めている、ということである。日本の場合、たしかに昨今、生活に困窮する人が増え、社会の閉塞感も深刻になってきていると、よく言われる。

それは事実だと思うが、彼ら日本の「なんちゃってフーリガン」の場合は、独自に応援グッズやステッカーを販売して金を稼いでおり、騒ぎを起こしてメディアでの露出が増えると、一定の割合で存在する「事あれかし」と思っている若者にアピールし、自分たちの承認欲求も満たされ、経済的にもプラスの効果があるというわけだ。

したがって浦和レッズだけの問題ではなく、ガンバ大阪や鹿島アントラーズのサポーターの中にも、似たり寄ったりの手合いが存在する。ネットにおいて今も根絶されていない「迷惑系」と似たところがあると言ってよい。

繰り返しになるが、日本サッカーは今や黄金時代を迎えようとしている。代表サポーターも、そのマナーの良さでもって世界中から賞賛の対象になっている。

そのようなサッカー界であればこそ、迷惑系もどきの連中がいる場所などない、ということを、今こそはっきりさせるべきだ。

トップ写真:1985年UEFAチャンピオンズカップ決勝戦前の激戦中、リバプールファンが敵対するユベントスファンに追われる。イタリアのファン14人が死亡するという史上最悪の惨事となった。(1985年5月 ベルギー・ブリュッセル)出典: David Cannon/ALLSPORT/ Getty Images

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