「子ども3人の父親役もこなさなければ」シングルマザーの奮闘は病で崩壊した 原発事故で県外避難、12年後「再建格差」の現実

福島から大阪に避難してきた佐藤礼子さん(仮名)=2023年3月、大阪府内の駅前で

 シンクには食器がたまり、床には湿ったままの衣服が積まれていた。2019年冬、大阪府内の公営住宅。住人でシングルマザーの佐藤礼子さん(48)=仮名=は適応障害による体調不良で、布団から出られない。
 夫と離婚した後、高校生~小学生の子ども3人を育てるため懸命に働いてきたが、体が悲鳴を上げた。福島市の実家には両親がいるが、頼りづらかった。東京電力福島第一原発事故の後、避難してきたためだ。(共同通信=西村曜)

事故が起きた東京電力福島第1原発の原子炉建屋=2012年10月

 ▽避難指示区域の外にあった自宅
 2011年3月11日の東日本大震災まで、佐藤さんは福島市で夫と子ども3人、義理の両親の7人で暮らしていた。車好きの夫は、週末になると子どもらを連れてよくドライブへ出かける。福島市を見下ろす吾妻山のスカイライン、宮城や栃木まで行くこともあった。佐藤さんは近くに住む実母とショッピングモールに買い物に行き、ママさんバレーのチームで汗を流した。
 その生活は一瞬で崩壊した。3月12日以降、テレビには青空の下で白煙を上げる原子炉建屋の姿が連日映された。佐藤さん宅は原発の北西約60キロ。政府による避難指示の対象外だったが、風向きのせいか、放射線量が高い地域は原発から北西方向に伸びている。日を追うごとに街を離れる人が増えていった。スーパーでは県外産の野菜が売れ、地元産は棚に残ったまま。子どもと外出するときは草や土に触らせないように気を付けた。
 佐藤さんは自問自答を繰り返した。「成長期の子どもたちを福島で育てていいのか」「将来子どもから『なんで避難してくれなかったんだ』って言われたらどうしよう」
 悩んだ末に避難を決意した。夫は消極的だったが、1年かけて説得。2012年3月、仕事がある夫だけを福島に残し、子どもと大阪へ移った。大阪は旅行でしか行ったことがなかったが、事前に調べた際、住宅支援が手厚そうだと感じていた。
 たどり着いたのは大阪府営住宅の3階。新居の窓から外を見ると、小さな公園があった。
 子どもたちが笑顔で飛び出していく。滑り台とブランコぐらいしかないが、もう草や土に触れることを気にしなくてよかった。「当たり前のことがこんなにうれしいんだ」。佐藤さんはほっとした

府営住宅から見え、子どもたちが飛び出していった公園=2023年7月

 ▽働き過ぎで病に伏せる
 数年後には福島に戻るつもりだったが、大阪の友達が増えた子どもたちは残りたがった。帰還を望む夫と次第に意見が合わなくなり、2016年末に離婚した。これからは自分ひとりで稼がないといけない。収入を増やそうとパートをやめ、福祉施設の事務職としてフルタイムの仕事を得た。
 ただ、毎朝午前7時前に自宅を出て午後10時過ぎに帰宅する生活に。オーバーワークがたたり、3カ月後には布団から起き上がれず、家事もできなくなった。いつもいらいらして子どもたちとのけんかも絶えなくなった。精神科で「適応障害」と診断された。
 一気に生活が崩れ始めた。病状が悪化し、通院する気力すら失う。処方されていた薬も切れた。家事や家計の管理はもともと苦手だが、福島では両親ら周囲のサポートもあり、大きな問題にはなっていなかった。大阪では頼れる人がいない。自分たちだけ避難したことへの引け目があり、福島の実家には相談できなかった。
 高校生の長女は不眠がひどくなり、不登校に。部屋は汚れた洗濯物であふれ、食事も出前ばかりで出費がかさんだ。3人の将来の学費用にと蓄えていた貯金数百万円を取り崩し、やがて底を突いた。

 ▽256世帯もいた全国の要支援世帯
 佐藤さんのような県外避難者は、岩手、宮城、福島の被災3県で最大7万2892人いた。現在は多くが故郷に戻ったり、避難先で定住したりして生活再建を果たしている。
 中にはいまだに苦しみ続けている人もおり、支援する全国の32団体によると、今年3月の時点で、少なくとも256世帯は「単独での生活維持が難しく、継続的な支援が必要」。「再建格差」が浮き彫りになっている。
 256世帯のうち、要支援の理由が判明しているのは127世帯。内訳は、経済的困窮が46世帯(36%)、精神面も含む健康不安が32世帯(25%)、その両方が49世帯(39%)だった。佐藤さんも、両方に懸念があると分類されている。
 被災前の居住地は、判明している139世帯のうち107世帯は福島で、原発事故の影響が大きいとみられる。

避難者支援団体「まるっと西日本」代表の古部真由美さん=2023年9月

 ▽要支援世帯の「発掘」を続ける支援団体
 経済的、精神的に追い込まれた佐藤さんには、幸いにも気付いてくれた人がいた。避難者支援団体「まるっと西日本」代表の古部真由美さん(50)だ。佐藤さんとは定期的に連絡を取っていた。
 古部さんが当時の状況を振り返った。「本人は気付いていなかったが、ひとり親で、かつ生活の管理が苦手な彼女は、生活が悪化しやすい『災害弱者』の条件がそろった人だった。放置すれば状況が悪化するのは明らかだった」
 古部さんは震災後、被災地から関西地方に避難する人たちの支援を続けてきた。普段から避難者向けのイベントを開いて避難者と連絡先を交換しており、生活が崩れていないか、定期的に電話してチェックしている。
 古部さんによると、政府は全国にいる避難者の情報をまとめるシステムを運営しているが、一部の自治体を除き支援団体には共有されていない。このため、現状では支援団体とつながれた人の中でしか要支援世帯は把握できていない。「氷山の一角だ」と指摘する専門家もいる。
 古部さんは明かす。「定期連絡で要支援世帯を『発掘』しているのが現状です」。佐藤さんの場合も同じだった。
 古部さんと仲間はまず佐藤さん宅に行き、掃除や洗濯といった家事をした。住環境を整えないと、気持ちが沈んだままで再建に動き出せないと考えたからだ。足の踏み場もなかった部屋がすっきり片付いた。佐藤さんは感謝している。「軽トラック1台分くらいのごみを捨ててもらった」
 さらに訪問看護も受けるようになった。看護師が自宅を定期的に訪ねて様子をみてくれる。「外から人が訪ねてくることで、自分がぴりっとできた。部屋をきれいに保たなきゃと思うようになった」
 古部さんは週1回、佐藤さんに電話で連絡を入れ、生活保護を受給する手続きも支援した。住環境と経済面が安定してくると、佐藤さんは再び通院できるようになり、体調も戻っていった。
 佐藤さんが当時を振り返ってこう言った。「私は古部さんに会えてラッキーだった。思えば福島に帰るつもりで、大阪で深く付き合う人もつくっていなかった。窮地に立って、自分が孤立していたことに気付いた。避難で余裕がなくなり、新しいつながりや信頼できる人をつくるのは難しかった」

「まるっと西日本」のスタッフ(右)が同席して生活保護の申請を行う佐藤礼子さん(仮名、中央の帽子の女性)

 ▽生活崩壊の連鎖
 県外避難者が苦しむ理由について、早稲田大災害復興医療人類学研究所の辻内琢也所長に尋ねた。
 ―県外避難者の中には今も生活再建ができず苦しんでいる人がいます。なぜでしょうか。
 「土地を離れることで仕事を失うことが多いからです。特に農業や漁業など地域密着型の職業は経済的に完全に崩壊します。これをきっかけに家庭が壊れたり、精神的に不安定になったりする連鎖が起きてしまうのです。広域かつ長期に避難する人の中に、生活困窮者が出ることは海外の移民や難民の研究でも明らかになっています」
 ―支援団体は、その中でもひとり親や高齢者、精神疾患のある人たち、いわゆる「災害弱者」と呼ばれる人たちが目立つと指摘しています。
 「一般的に災害弱者とされる方々は土地を離れると、これまで受けてきた家族や親戚、地域社会からのサポートを受けられなくなるリスクがあります。遠隔地に行くことで、これまでその人を支えていた柱がボキボキと折れてしまい、避難前は問題が顕在化していなかった人でも生活に関する問題を抱えてしまうのです。他の土地に行くことはすごいダメージだと思いますね」
 ―県外避難者の支援の仕組みはどうなっていますか。
 「震災から12年が過ぎたいま、行政の助成額は減り、支援態勢は先細りなんです。国や、県外避難者が最も多い福島県の政策も、帰還促進に重点が置かれ始めています。帰還しない人は切り捨てていくという思想が根底にあるように思います」
 ―県外避難者にはどんな支援が必要でしょうか。
 「避難元自治体の政策はどうしても帰還促進にならざるを得ない部分もあるでしょう。でも避難先に定住したい人もいる。国が避難者の生活復興を支援する必要があります。避難先の自治体や社会福祉協議会と情報を共有し、地域の福祉部門が支援できるような枠組みを提案したいです」

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