「核燃の村」に残る満州の記憶、開拓の跡 「国策」に翻弄された青森県六ケ所村

移転した集落跡に残る入植記念碑=2023年3月1日撮影

 本州最北端の青森県・下北半島にある六ケ所村は、原発推進の鍵を握る核燃料サイクルの中核施設が集まる「国策」の村だ。関連の交付金や税収に恵まれ、全国有数の豊かな自治体としても知られるが、かつて住民は出稼ぎ頼みの生活を強いられた。戦後、旧満州(中国東北部)から引き揚げた人々らが入植した土地は農業に向かず、高度経済成長期の大規模開発計画に伴う買収でいくつもの集落が消えた。何度も国策にのみ込まれた村で、戦争と開拓の痕跡をたどった。(共同通信=中川玲奈)

 ▽要塞のような施設

 筆者は2021年5月、新人記者として青森支局に赴任した。直後に、記者の原稿をチェックする立場のデスクから「核燃料サイクルは勉強しないとね」と言われた。
 核燃料サイクルは、原発で使い終わった核燃料からまだ使えるウランや新しくできたプルトニウムを取り出し、混合酸化物(MOX)燃料として原発で再利用する計画を指す。資源に乏しい日本は、原子力政策の要に位置づけている。

 下北半島縦貫道路の「六ケ所インターチェンジ」を下り村中心部へ向かうと、石油備蓄基地のカラフルなタンクや一面に広がる太陽光パネル、林立する風力発電が次々に現れる。そして広大な敷地を柵が囲み、要塞のような核燃料サイクル施設が目に入る。六ケ所村には中核の使用済み核燃料再処理工場をはじめ、関連施設が集中する。
 この「エネルギーの村」で村長として3期目を務めているのが戸田衛さん(76)。「六ケ所村には、戦後満州から引き揚げてきた人たちがいたんだよ」と教えてもらい、開拓の歴史をたどる取材が始まった。

 ▽空前のバブル

 1945年の太平洋戦争終戦後、日本の領地だった満州や樺太などの外地にいた多くの日本人が帰国。政府は失業対策や食糧増産のため、全国で緊急開拓事業を実施した。六ケ所村にも開拓集落ができたが、春から夏にかけて太平洋から冷涼なやませが吹き農業は振るわず、不漁も続いた。村民の多くは出稼ぎで生計を立てた。
 1969年、政府は石油コンビナート基地形成などの新全国総合開発計画が閣議決定した。六ケ所村は当初、半分が「むつ小川原開発」の予定地に選ばれ、土地の価格は跳ね上がった。村史は「空前の土地バブルが起きた」と記録する。寺下力三郎村長(当時)を中心に反対運動が起きたが、最終的に千人程度が村内外への移転に応じたとされ、上弥栄や弥栄平など9集落は消滅した。しかし石油危機が起こると計画は頓挫。買収された広大な土地が余った。
 1984年、今度は大手電力会社でつくる電気事業連合会が、青森県に核燃料サイクル施設建設協力を要請した。再び反対運動が起きたが、1993年に再処理工場が着工。30年たった今も完成していない。

青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場=2020年5月14日撮影

 ▽「私が引き揚げ者です」

 村に残る満州引き揚げ者探しは難航した。たまたま立ち寄った食堂の店主に「道の向かいが庄内。開拓者の集落だ」と教えられたのは、取材を始めてから数カ月後のことだった。
 集落を訪ねて2軒目。応対してくれたのは小柄な女性だった。「はい、私が引き揚げ者です。つらい時の記憶で、あんまり覚えてないけど」。村井喜代女さん(82)はそう答えた。集落は、山形県庄内地方の名前を残している。
 村井さんは4歳のとき、旧満州(中国東北部)で終戦を迎えた。父の佐藤繁作さんは庄内地方出身者800人余の「三股流庄内郷開拓団」の団長だった。豊かだった生活は一変し、逃避行が始まった。かわいがっていた3歳の弟と、生後1週間の妹は、日本の地を踏む前に亡くなった。途中で乗った満員の列車は屋根も壁もない。落ちそうで怖くてたまらず、失禁した。

旧満州から引き揚げ、青森県六ケ所村に移り住んだ村井喜代女さん=2023年3月2日撮影

 ▽「夢の国だ!」

 帰国すると、団員は200人ほどに減っていた。父は団長として次に生きる土地を探した。「夢の国だ! とにかくすごいところだぞ」。1948年、先に移住した父を追い六ケ所村へ。待っていたのは今にも屋根が飛ばされそうな木造の小屋。独りぼっちだと感じ、3日間泣いた。
 「夢の国」では冷害に悩まされ、農業は不振が続いた。社会運動家の賀川豊彦の助言で酪農に転じ、ようやく生活が落ち着き始めると、今度はむつ小川原開発による土地買収が始まった。だが集落で土地を売る人は一人もいなかったという。
 当時、父の佐藤さんは村会議長だった。開発に賛成か反対かについて、終生語らなかったという。ただ自分たちが切り開いた庄内の土地は売ろうとはしなかった。一度だけ、酔った父がこう話したのを覚えている。「残して良かったか悪かったかは分からない」

村井喜代女さんの父で「三股流庄内郷開拓団」団長の佐藤繁作さん=撮影場所、日時は不明

 国策によって村は豊かになった。むつ小川原開発や核燃料サイクル施設がなければ、村はなくなっていたとも思う。土地を売らないという自らの判断は正しかったのか。父は自問自答していたのだと、村井さんは振り返る。
 村井さんは専門学校を卒業後、養護教諭として村に戻った。つらい引き揚げの記憶は長年語ってこなかった。しかし約2年前に亡くなった夫に、「おまえが語らないと歴史はちゃんと伝わらない」と叱られという。「歴史は封印しては作られない。経験した、生の声だもの」と話す村井さん。「あれだけの試練を乗り越えて82歳。今は毎日が楽しく幸せです」と優しく笑った。

青森県六ケ所村の庄内集落で開拓する人たち=撮影日時不明

 ▽誓った「再出発」

 六ケ所村では、大規模開発に伴う買収に応じ、開墾した土地を明け渡し、移転した集落も多い。村内で「いやさか自動車」を営む田村七郎社長(75)は、その一つ、弥栄平の出身だ。4月上旬、田村さんを訪ねると、記憶をたどりながら話してくれた。「小3で父が亡くなってね。小5くらいで母が家を出て行ったんですよ」。
 田村さんは8人きょうだいの四男。母は畑を耕し小豆やジャガイモを育てたがうまくいかなかったという。姉妹は他家へ行き、兄も次々と村外へ出た。残ったのは長男夫婦だけ。中学卒業後、15歳で自動車整備士の見習いとして埼玉県へ。「生きる道を探さなくちゃ。仕事なんてつらいと思わなかったよ」
 むつ小川原開発を知ったのは、村を離れて10年ほどたったころ。兄は農業を続けていたが、先行きは見通せない。多くの住民が車を買えるようになると期待し、自動車整備工場をやろうと考えた。1973年、村に戻り、翌年、実家の土地に兄とともに整備工場を開く。買収の対象となると、実家を含めて開拓した土地は全て売り、工場も移転した。

いやさか自動車」の田村七郎社長=2023年4月5日撮影

 1979年10月26日、田村さんは弥栄平集落の閉村式に参加した。当時31歳。「少し寂しいけど、苦しい今よりは良くなるだろう。今日は再出発の日だ」と誓った。工場は軌道に乗っており、むつ小川原開発が頓挫した後も順調だった。核燃料サイクル施設の計画が舞い込んだときも、期待が不安を上回った。
 1984年、独立して社長になった。「いやさか自動車」の社名は、弥栄平から取った。仕事の約6割は、核燃料サイクル施設を運営する日本原燃に関係する車販売やバスでの人員輸送業務など。田村さんは、いやさか自動車は原燃とともに歩んできたと話す。「六ケ所村は出稼ぎしなくてよくなり、豊かになった。原燃に関わっていない人はいないのでは」
 複雑な思いもある。サイクル施設でトラブルが起き、住民が再び移転を迫られる事態にならないか。「移転の大変さを知っているから。そうならないよう、努力してほしい」と望む。
 田村さんは、かつて売った弥栄平の土地を7割ほど買い戻し、事業を拡大する夢を持っている。「おふくろが入植し、兄貴が売った土地だ。思いのこもった場所で仕事がしたい」

 ▽六ケ所銀座

 村には「六ケ所銀座」(尾駮銀座)という小さな飲み屋街がある。核燃料サイクル施設などの関係者や作業員の憩いの場だ。関連施設の建設で村に雇用が生み出され、固定資産税など税収も増えた。
 一方、再処理をして製造するMOX燃料は、本命だった高速増殖炉の原型炉「もんじゅ」(福井県)が廃炉となり、通常の原発で使うプルサーマルも進んでいない。プルトニウムは核兵器に使われるため、国際的な懸念もある。2021年の自民党総裁選では、出馬した河野太郎氏が「なるべく早く手じまいすべきだ」と訴えるなど、「国策」の是非を問う声は今もやまない。

 ▽忘れたい歴史も

 村長の戸田さんも六ケ所村で育った。父は大工で、正月と盆以外は家にいなかったという。高校卒業後、村役場に就職。国策を巡り住民が賛成派と反対派に別れた時代を目の当たりにしてきた。

取材に応じる青森県六ケ所村の戸田衛村長=2023年4月12日撮影

 村長室を訪ねると、戸田さんはいつもコーヒーを出してくれる。村の歴史を書きたいと話す私に、困ったように笑った。「忘れたい歴史がいっぱいあるね」。戦争と、貧しかった戦後を生き抜こうとした人々の前に、国策は光と影をもたらした。

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