【つなぐヒロシマ】父の敵を取るために従軍看護婦を望む 原爆投下後の救護活動から得た「人の命は生かすもの」 命が続く限り語り続ける94歳女性の覚悟

【動画】被爆者・中岡穂子さん(94) 看護学生が見たヒロシマの惨状

読売新聞と共同で被爆者の証言を記録する「つなぐヒロシマ」です。今回は、原爆が投下された直後に、看護学生として救護活動に携わった94歳の女性です。

父の敵を取るために看護師を志す

三原市に住む、被爆者の中岡穂子(ひでこ)さんは94歳。2人の子どもを育て上げ、今は夫との2人暮らしです。70代半ばまでの60年近く勤めた看護師。志したきっかけは、父親の戦死でした。

■中岡穂子さん

「お父さんの敵をとるのに看護婦になってね。従軍看護婦になったら、外地に行かれるからね、戦争のところへ。ほいでもう、敵を打とうと思って。そういうつもりでなったんよ。」

従軍看護婦になって、戦場に行きたい。終戦の年の春、15歳で三原の看護学校に入学します。

そして、迎えた8月6日。西の空が光ったと言います。

■中岡穂子さん

「今日もいい天気じゃ、暑いね~思いよったらね、ピカーっと光ったんよ。おかしい。こうやって空を見たらね、全然曇ったあれもないし、雨も降るようではない。夕立も降りゃせんだろうし、これどうしたんだろうか、なんで光ったんじゃろうかと思って。」

午後、学校から呼び出されます。およそ40人の医師や看護師と共に、トラックで向かった広島市中心部は、劫火に包まれていました。

劫火に包まれた広島は…

■中岡穂子さん

「とにかく見よるところがね、みな死人、死人。中には生きとるものもおってよ。死人の中じゃ、ちいとはものを言いよるんがおる。『おーいおーい』言いよるんがおるか思ったら、『ブーブー』言いよるんがおるか思ったら、今度はこっちの方じゃ『水をくれー水をくれー』って、はっきりした人はね。まあ本当ね、あれが地獄じゃと思うたよ。まあ~、それはまあね、口じゃ言われん。見たもんにしか分からん。言いなさいって言ったって、それ以上は言われん…」

医療品は足りず、治療と呼べる様なものは、望むべくもありません。

■中原穂子さん

「最期に(水を)飲ませた子どももおるんじゃけど、ああ…あれは…あれはいけん。あれはかわいそうな。今に思う。水を見たら思う…」

78年が経った今も鮮明なのは、土手の下にいた2歳くらいの男の子の記憶。

■中岡穂子さん

「下の方で『ブーブー』言いよるような声がしたんよ。もう全身やけど。

ようあれで生きとったことじゃ…かわいそうな、かわいそうなやけどをしてから、(皮膚は)ズルズルで血は出とる。膿は出とるね。」

水を飲ませてはいけない。当時はそう聞いていましたが、一緒にいた医師の指示で、水筒の蓋で1滴ずつ飲ませました。

■中岡穂子さん

「にたーっとしてくれたんよ、してくれたような気がするんよ。うれしかったんじゃろうよ。『ブーブー』言いよる。誰も飲ませんけえね。私らが通りかかって、飲ませたけんね。ああ、美味しかったんじゃのう思って。私らもちょっとは嬉しかったけど。」

間もなく、息を引き取りました。我に返ると、なきがらを抱いて泣いていたと言います。

人の命を生かすために

中岡さんは、9月頃までに3度にわたり、広島市内で被爆者の救護にあたりました。看護師になるのは、父親の敵をとるための筈でした。しかし、人の命は奪うのではなく、生かすもの。広島での体験が、そう教えてくれました。

被爆から45年の節目、初めて被爆体験をまとめます。地元・三原の被爆者団体に頼まれ、しかばねの町で救護にあたった記憶をつづりました。これをきっかけに証言活動の道に。94歳になった今も、子どもたちに語り継いでいます。

■中岡穂子さん

「平和しかないね。もう戦争だけはもう絶対駄目よ。戦争の「せ」を聞いただけ、もう嫌だ。嫌じゃね。私らだけでもう十分よ。もう私らがね、全部かぶったと思えば。あとはほいじゃけね、私らが犠牲になったんじゃけ、あとの人は安楽に暮らせるような、日本であってほしいと思うよ。」

78年が経った今も、全身を焼かれ、苦しみながらなくなった人たちを、忘れることはありません。命が続く限り語り続ける。それが、94歳の覚悟です。

【テレビ派 2023年10月3日放送】

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