岡田彰布監督38年ぶりの日本一へ!アレの女房・陽子夫人語る「名将と歩んだ苦闘41年」

9月14日、18年ぶりのリーグ優勝を決めた岡田監督

「去年の秋季キャンプで主人は選手たちと初めて顔を合わせました。約3週間の日程を終えて帰ると、とても喜んでいました。これから選手たちが伸びていくと確信したのだと思います」

復帰1年目で、阪神タイガースをリーグ優勝に導いた岡田彰布監督(65)を陰で支えてきた陽子夫人(64)はそう語った。18年ぶりの歓喜はWBCを上回る969億円の経済効果が見込まれ、関西は沸きに沸いている。「名将・岡田」を語るうえで、41年連れ添う妻の存在は欠かせない。

「マジック1で迎えた試合は甲子園球場で、息子の奥さんと2人の孫とで観戦しました。優勝の瞬間、地鳴りのような声援を聞いて、鳥肌が立ちました。ファンの方々の応援に後押しされての優勝だと実感しました」(陽子さん)

9月14日、阪神が宿敵・巨人を破って、地元・甲子園球場で岡田監督が宙に舞った。昨年の就任以来、選手に「優勝」を意識させないため、「アレ」と表現してきた指揮官がインタビューで「今日で『アレ』は封印して、みんなで『優勝』を分かち合いたい」と言うと、満員の阪神ファンの大声援がこだました。

「次の日から広島遠征だったので、チーム全員が球場近くのホテルに宿泊しました。そのため、優勝が決まってから3日後に初めて主人と会いました。家に来ていた孫たちと一緒にお出迎えして、『おめでとう。よかったね』と声をかけました。時間もたっていたので、落ち着いて『うん、うん』って感じでしたね。でも、孫に『おめでとう』と言われると、ニコニコしてました」

昨秋、岡田監督は2008年以来となる縦縞のユニホームに袖を通した。秋季キャンプを終えて帰宅すると陽子夫人にこう言った。

「みんな、すごくええよ。潜在能力が高い。少し教えると、自分のモノにしようと一生懸命取り組んでくれる。すぐ理解してくれて、できるようになったことも多い」

ふだん、簡単には褒めない性格を知っているからこそ、妻は「アレ」への手応えを感じた。阪神は4年連続Aクラス、一昨年はゲーム差なしの勝率5厘差で優勝を逃すなど地力はあったものの、何かが足りなかった。岡田監督は前年まで複数ポジションを守っていたレギュラーの守備位置を固定し、選手に責任感を持たせた。そして、「四球はヒットと同じ」と伝えてボール球を振らせないなど意識改革も行い、充実の秋季キャンプを終えていた。

「以前なら『なんでできへんねん』と怒るような場面でも、今は『成長の過程だから大目に見よう』と思うみたいです。『間違いをすぐに指摘しても伸びない。考えさせることが大事なんや』『怒って緊張させるとよくない結果になる』というわけです。そうすると心のゆとりもできて、選手を見守る気持ちが強くなったようです。そう変わったのは、年齢を重ねたのと同時に、孫が生まれたのも大きいと思います。今まで出したことのない優しい声で『こっちおいで~』と笑顔で話しかけていますからね(笑)」

昨年12月、チームスローガンは「A.R.E.」に決まった。アルファベットには「A=Aim(個人、チームとして明確な目標に向かう)」「R=Respect(諸先輩方を敬う気持ち)」「E=Empower(個々のパワーアップ)」という意味が込められていた。これらの単語は、中学、高校、短大とカナダで生活した帰国子女の陽子さんの提案によるものだ。

「主人の考えを反映させたかったんです。特に“R”はタイガースの伝統を継承するために『リスペクト』を選びました。子どものころから阪神が大好きで、歴史を重んじる人でしたから」

■出会って2カ月で電撃婚。「寡黙だけど一本芯が通っているから」と陽子さん

島倉千代子の『東京だョおっ母さん』がヒットした1957年、岡田彰布は大阪・玉造に誕生した。紙の加工工場を経営していた父の勇郎さん、母のサカヨさんにとって待望の第1子だった。その3年後タイガースに入団した三宅博さん(82)は当時から岡田家と深い交流があった。

「お父さんが阪神の有力後援者でしたから、甲子園や選手寮の虎風荘に岡田をよく連れてきてました」

自宅は3階建てで1階が工場、2階と3階が住居だった。屋上は野球の練習をするために、周りは金網で囲われていた。

「息子が学校から帰ってくると、お父さんは屋上で練習の相手をしていました。ただ、気管支が弱くて、よく咳をしていた。体の強くない夫を陰で支えていたのが、お母さんのサカヨさんです」(三宅さん)

妻は夫と息子のため、愚痴ひとつこぼさずに黙々と働いていた。

「練習が終わるころを見計らって、お母さんが1階から上がってきて夕飯を用意する。ワタシらが遊びに伺うと、お父さんは飲みに連れていってくれました。その間も、お母さんは工場で働いていました」

三宅さんが「無理せんといてください」と話しかけると、母親からはいつも同じ言葉が返ってきた。

「お父さんの工場で一生懸命働くことが、すべて彰布のためになる。そう思うと、なんにもつらくありません」

東京六大学野球の早慶戦に憧れた岡田は、北陽高校から早稲田大学に現役合格。4年時には主将を務め、新監督から頼まれて自ら練習メニューやメンバーを決めた。その春、早大は優勝した。

’79年秋のドラフト会議で史上最多(当時)の6球団から1位指名を受け、抽選で交渉権を得た阪神に入団。1年目に新人王を獲得し、2年目にはフル出場。4番の掛布雅之とともにチームの主軸になった。そのオフの’82年1月、後援会の新年会で陽子さんと出会った。

「主人の父の知人と私の両親が知り合いで『会ってみないか』と勧められたんです。野球に詳しくなかったのですが、父から『すごい選手だよ』と聞いて面白そうだなと。初対面の印象は“ニッポン”って感じの男性でした(笑)。寡黙だけど、どこか一本芯が通っている。それまで見てきた海外の男性とは全く違って新鮮でした。長く外国にいたので、日本的な人を求めていたのかもしれません」(陽子さん)

新年会が終わった後、2人は生演奏の聴けるスナックに行った。カップル用のソファに座った途端、岡田は眠ってしまった。

《ほんと、覚えとらん。寝てたというても、無意識やから…。妻に言わせれば「会うたびに寝ていた」ようだが、多分、一緒におっても楽やったんやろうな。波長が合った、ということじゃないか》(’08年12月10日付/デイリースポーツ)

2月の春季キャンプ中に岡田が電話で「一緒に暮らしてくれるかい?」とプロポーズ。出会って2カ月もたたない3月1日、大阪のホテル阪神で婚約会見を行った。岡田は決め手をこう語った。

「お嫁さんになる人はしっかりした人がいいと思っていました。初めて会ったとき、僕よりしっかりしてる印象で、この人なら遠征のときも家を任せられると思った」

編入先の上智大学から日本ビクターに入社し、企画室で外国文献の翻訳をしていた陽子さんは寿退社。一人息子の夫の希望もあり、新たに4階を増築した岡田の実家で彼の両親と約6年間同居した。

「サカヨさんが裏で勇郎さんを一生懸命支える姿を見て、陽子さんも影響を受けたみたいですよ」(岡田夫妻の知人)

■英語が堪能な陽子さんは、バースの妻の友人に。バースはチームの柱へ

結婚翌年の’83年、陽子さんが“殊勲打”を放つ。のちに「史上最強の助っ人」と呼ばれるランディ・バースが入団したものの、オープン戦で骨折して開幕二軍スタート。一軍昇格後も出番は限られ、初ホームランはチーム19試合目の5月7日だった。バースの不振は、ある悩みに起因していた。

「日本になじめないリンダ夫人が『外に出たくない。アメリカに帰りたい』と毎日泣いていた。バースは帰国の決意を固めていたそうです。そこに、岡田さんが救いの手を差し伸べた。英語のできる陽子さんに『バースの奥さんの相手になってくれよ』と頼んだ。それから夫人同士で一緒に買い物に行ったり、相談に乗ったりするようになった」(阪神担当記者)

安堵したバースは徐々に調子を上げ、チームに欠かせない存在になる。そして、今も語り継がれる’85年を迎える。4月17日の巨人戦でバース、掛布、岡田の「バックスクリーン3連発」が飛び出し、チームは上昇気流に乗る。7月15日には、岡田家に長男が誕生。「太陽をいっぱい集めるような明るい子に」と願い、「陽集」と名付けた。

「岡田さんは気前のいい人で、若手や裏方さんによく奢っていました。遠征前になると、陽子さんが財布に30万円ほど入れていたそうです」(前出・阪神担当記者)

岡田夫妻の気配りはチームを好循環させた。同年、阪神は21年ぶりの優勝。日本シリーズでも西武を撃破して初の日本一に輝いた。

しかし、人生よいことばかりは続かない。翌年、父の勇郎さんが55歳で他界。’87年、チームは最下位に沈んだ。そのオフ、岡田は新居に移り住んで心機一転を誓うも、翌年のバースの退団、掛布の引退で阪神は暗黒期に突入していく。

岡田は2年連続で不振に終わった’93年10月5日、物心ついたころから愛し続けた阪神からクビを宣告された。その夜、岡田夫妻は懇意にしている日刊スポーツの阪神番記者とお好み焼き店で食事をした。当時は他球団へ移籍すると、指導者として古巣に戻ってこられないケースが頻繁にあった。岡田の将来を考えた番記者が引退を勧めると、陽子夫人は涙を浮かべながら反論したという。

《主人の“現役”というのは、もう二度とこないんですよ……》
《一球団で終わるべきだとか、日本の考え方は古いのでは。それにうちの人は幹部候補生なんて、だれにも約束されたことないんですよ!》(’94年1月30日付/日刊スポーツ)

ふだん、表に出ない陽子夫人が夫を差し置いて、思いの丈をぶちまけた。当時36歳の岡田は仰木彬監督の計らいもあって、オリックスに移籍。’95年にはイチローの大活躍などで優勝を果たし、この年限りで引退した。翌年からオリックスの二軍助監督兼打撃コーチを2年間務め、’98年から二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。翌年から二軍監督を務めた。阪神の元選手で、西宮市甲子園口で居酒屋 「KENPEI」を営む中谷賢平さん(67)が振り返る。

「二軍で日本一になったとき、寮の虎風荘で乾杯した後の岡田から『今から店行くわ』と電話がありました。『何人で?』と聞いたら、『30人全員連れていく』って。いつも豪快なんですわ(笑)」

’03年、岡田は二軍監督から一軍内野守備走塁コーチになり、阪神は星野仙一監督のもとで18年ぶりの優勝を果たした。そのオフ、岡田は一軍監督に昇格。“闘将”と呼ばれた前任者と比べ、感情を表に出さない新しい指揮官に不満を述べるマスコミやファンもいた。岡田は著書でこう綴っている。

《おれは何も思わんかったけど、そんな言葉を聞いた嫁はんが、なんかカリカリしとったなあ。嫁はんに言わせれば、何があっても動じず、どっしり構えて表情を変えない強さが日本人の美徳でしょって……》(’09年11月発行『オリの中の虎』)

妻は、自分の惚れた性格を否定されたくなかったのかもしれない。同時に、夫への気遣いもあった。以前、本誌は陽子さんからこんな話を聞いている。

「監督1年目のシーズンは、家に戻ってきても何もしゃべらないし、食事も取らない日もよくありました。今まで一度も見たことのないような姿で、私もどんな声をかければいいのかわからなかった」

それでも対外的には明るく振る舞った。その当時、相手を分析するスコアラーを務めていた三宅さんが岡田の自宅に行くと、陽子さんは微笑みながらこう話したという。

「ウチのパパねえ、夜遅く飲んで帰ってきてもね、必ず朝の10時には机の上に三宅さんの作ってくれた書類やデータをずらっと並べてね、何か考えているの。いったい、あの人はいつ寝てるんでしょうねえ」

岡田は午前中に準備を済ませ、ベンチに書類を持ち込まない。スコアラーとして吉田義男、野村克也、星野仙一など8人の指揮官を支えた三宅さんは断言する。

「記憶力、分析力、洞察力など監督に必要な能力を比べると、岡田が一番だと思います。吉田さんは一枝修平さん、星野さんは島野育夫さんという名参謀にデータを分析させたうえで采配していました。でも、岡田は全部1人でやりますから。コーチがベンチで書類を出すと、『球場に来る前に頭に入れてこい』と怒っていました」

岡田は妻にも最低限の知識を求めた。

「主人は勉強不足をすごく嫌います。ですから私は、現役のときから毎試合テレビで観戦して、翌朝すべてのスポーツ紙に目を通しています。記者さんにも、選手やコーチの方にも『そんなんもわからんのか』とよく言っているみたいですね」(陽子さん)

■家でも「アレ」ばかり言う岡田監督。陽子夫人だけはすべて理解できる

陽子さんの夫への理解力は野球だけに限らない。別の阪神担当記者は、息子の陽集さんにこんな話を聞いた。

「父は家でも『ちょっとそこのアレをアレしてくれんか』とか言うんですよ。僕にはさっぱりわからない。でも、母はテーブルにあるしょうゆを取ったり、新聞を持ってきたりする。母だけは『アレ』『ソレ』が何を指しているのか理解できる。息子の僕も驚きます」

就任2年目の’05年、岡田は解雇の危機にあった藤川球児のリリーフ適性を見抜き、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに鉄板の救援陣「JFK」を確立して優勝を果たした。当時、陽子さんは本誌にこう語っていた。

「家でいかにリラックスしてもらうかに気をつけました。幼いころから野球一筋の人で、気分転換になる趣味がない。ですから、バラエティ番組や格闘技、ドキュメンタリーなどを録画しておくんです。2人で話しながらビデオを見たら、気が紛れるかなと思って」

就任5年目の’08年は開幕から独走し、7月にマジックを点灯させた。しかし、巨人に最大13ゲーム差をひっくり返され、岡田は責任を取って辞任。当時、陽子さんは本誌に素直な心境を吐露した。

「優勝の雲行きが怪しくなってきてからは、一緒にバラエティを見ることもなくなりました。私が気分転換をさせようとしたり、妙に明るく振る舞ったりすること自体がしらじらしくなってきたんです。夫婦ともに日を追うごとに食欲もなくなり、元気もどこかに行ってしまった。ただ、お互いがそんな状態でしたから、同志のような感覚になりました」

阪神の指揮官として5年で4度Aクラスに入った岡田は’10年からオリックスの監督に就任。1年目には交流戦で優勝したが、3年目のシーズン途中に解任の憂き目に遭った。現場から離れて次のチャンスを待つ間、岡田は自己コントロール術を身につけていた。今回の取材で陽子さんはこう話した。

「この10年で、主人も変わりました。好きなサスペンスドラマを見ている間は野球のことを考えずに済むとわかった。数独も好きで問題集をたくさん買ってきて、よく解いています。いろいろ試して、自分に合った気分転換の方法をいくつか見つけたと思います」

愛する古巣への復帰を考え、岡田は己れを磨いていたのだ。中谷さんはこんな姿を目撃していた。

「監督になる前、よくウチの店にきて阪神の試合を見てました。『ピッチャーええし、優勝できる力のあるチームやのに』と歯がゆそうでした。『なんでここで選手を代えへんのや。おーん』とイライラしてました(笑)。今年もキャンプインの前日なのに監督就任記念の盾を持ってきてくれました。『こんなんできたから店に飾っといてえな』と。本当に律義で優しい男なんです」

過去の監督時代は40代後半から50代前半だった岡田も現在65歳。一般企業なら定年を迎える年で、超人気球団の指揮官という激務を担っている。食事が喉を通らなかった’08年の経験も生かし、陽子さんは今年、試合のない休日の食卓には本人の好きなものを並べたという。

「基本は魚を使った和食ですが、主人の食欲が落ちてきたようなときには、手製のお好み焼きやオムそばなど、庶民的でほっこりできるものを出すようにしていました。主人は生粋の大阪人なので、お好み焼きだと『オッ』と笑顔になってくれます。精神的にも落ち着けるでしょうし、まずは食欲をそそることが最優先ですから」

■「家では、主人に言いたいことを好きにしゃべってもらっています」

前回指揮を執ったときと違い、今シーズンの岡田はベンチで拍手をしたり、満面の笑みを浮かべたりしている。

「今の若い選手はベンチに向かってガッツポーズをして、喜びを表現しますよね。主人もその雰囲気にのみ込まれてしまっているように見えます(笑)。わざとではなく、選手たちに乗せられて自然に笑顔が出ている。感情を出すと気持ちも解放されてスカッとするでしょうし、ベンチが明るい雰囲気であふれているんだと思います」

岡田はごく親しい人と会食するとき、時折、妻への感謝をポロッと口にすることがあるという。

「自分は野球ばっかりして、家のこと何もしてないけど、嫁がしっかり息子の面倒を見てくれたからな。嫁さんのおかげや。遅くまで酒を飲んで家に帰っても、愚痴ひとつ言わへん。嫁がいるから野球に集中できるんや。いつも感謝してる」

三宅さんが力説する。

「岡田はいろいろヤンチャをしてきたけど、陽子さんの手のひらで転がされていたように思います。何があっても動じない陽子さんは、お釈迦様みたいな人ですよ。岡田1人の力じゃ、ここまでの監督にはなれなかったですよ」

クライマックスシリーズを勝ち上がって、日本シリーズへ─。相手は因縁のオリックスが予想される。86歳の今も元気な母への親孝行、そして愛妻のために優勝請負人は2度目の日本一を目指す。

「家では、主人に言いたいことを好きにしゃべってもらっています。精神面を考えると、それがいちばんいいですから。でも、今年はイライラしたり、落ち込んだりしなかったですね。体調も崩さなかった。若い選手が日に日に力をつけての優勝で、主人もやりがいを感じた1年だったと思います。次の目標に向けて、私は今までどおり、主人をサポートしていこうと思っています」(陽子さん)

名将を支え、どっしり構えて41年。アレを成し遂げた陽子夫人は“日本一の女房”となる─―。

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