かつては180店超あった「力餅」などの「餅系」屋号、ルーツは兵庫の但馬だった

大正期ごろとみられる力餅本店の写真(力餅連合会「100年のあゆみ」より)

 2本のきねが交差した特徴的なマーク。食堂なのに、おはぎや餅などの甘味も並ぶ。京阪神や兵庫・播磨地域の下町でよく見かける「力餅食堂」は、昔ながらの風情を漂わせる大衆食堂だ。創業130年超と歴史が古く、高度経済成長期には180店舗を数えた。京都女子大の奥井亜紗子准教授(46)=社会学=によると、「力餅」をはじめとする「餅系」食堂のルーツは但馬にあるという。詳しく聞くと、但馬との縁が、餅やうどんのように長くつながっていました。(阿部江利)

■のれん分けで拡大

 「力餅食堂のほかにも、『千成餅』『相生餅』『大力餅』『弁慶餅』の名を冠した食堂があります。のれん分けして広がったこれらの店を『餅系』食堂と呼んでいます」。奥井准教授が丁寧に解説してくれた。

 「力餅連合会」発行の記念誌「100年のあゆみ」によると、創業者の池口力造氏は兵庫県豊岡市の奈佐地区生まれ。農家の出身だが、商売で身を立てることを志し、最初は1889(明治22)年、豊岡市街地にまんじゅう店を開いた。しかし、店は振るわず、数年で閉店する。

 95(同28)年、再起をかけて、京都市内で「勝利饅頭(まんじゅう)」店を開店。1903年に店名を「京都名物力餅」と変更した後には、日露戦争の戦勝機運にも乗って店は大成功し、京都名物の一つになる。当初は甘味中心だったが、大正末期からは麺類、丼物を出す大衆食堂へと変わっていった。

■初代経営者の8割超が

 食堂は、従業員が住み込みで働きながら技を学び、のれん分けで独立開業するシステムで店舗数を増やした。太平洋戦争中は一時、閉店が相次いだが、戦後復興や高度経済成長で、京阪神の人口密集地などを中心に再び出店を重ね、ピーク時の1980年代(昭和末期)には約180店舗に拡大した。

 興味深いのは、「餅系」食堂は創業者だけでなく、のれん分けをした従業員の多くも、豊岡市や但馬地域の出身者だったことだ。北但馬の東部地域には、若者の就職の選択肢の一つに農業、会社員などと並んで「力餅」があった。立身出世を夢見る数多くの若者が、同郷のつてをたどって都市部に出て一旗揚げ、各地で庶民の食文化を支えてきた。

■8年の修業期間

 奥井准教授は2015年から餅系食堂の調査を続ける。17年には、現存する力餅食堂の経営者約80人を対象にした一斉アンケート(回答率約6割)を実施。調査によると、初代の経営者の出身地は但馬地域が約85%を占めた。うち創業者の出身地に近い旧日高町が約61%、旧竹野町が約16%で、全体の約86%が農家の出だった。

 力餅では戦前から、8年の修業期間が定められていたという。都会の若者と違い、但馬の若人は「但馬牛(うし)のようにがまん強く」、長時間の仕事にもよく耐えると評判で、全体の3割ほどが独立開業を果たしたとされる。修業した店とのつながりは強いが、独立後は基本的に個人経営。仕入れ先やメニューも店がある地域の実情に応じて異なり、店を切り盛りする夫婦が二人三脚でのれんを守った。奥井准教授は「但馬から京阪神に出て腕を磨いた人たちが、苦労を重ねながらも、地元密着型の商売で常連客をつかみ、愛されてきた」と説明する。

■風向きの変化に耐え

 奥井准教授によると、阪神・淡路大震災があった1995年ごろから、商売の風向きの変化を実感したとの声が目立つという。店が立地する商店街が、郊外型店舗や量販店、コンビニの攻勢に押されるようになり、外食産業も多様化していく時期と重なる。

 後継者不足などで廃業が相次ぐ中、新型コロナウイルス禍をくぐり抜けた後も、エネルギー高や原材料高などの逆風下にある餅系食堂。それでも現存する店の多くは、地域のお年寄りの食生活を支えながら、今も各地で踏ん張っている。

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