連載[新潟県中越地震19年・山古志再訪ルポ]<下>忘れられない炊き出しおにぎりの味 住民の温かさ、たくましさ今も 息遣い伝え続けるー「原点」の地に再び誓う

<2004年>泥で汚れた記者の取材ノート。「役場機能まひ」「村内行き来できず」と壊滅的な打撃を受けた村の状況を書き留めた

 歩いても歩いても、村が見えてこない-。2004年10月24日。新潟県で発生した中越地震の翌朝、道路が寸断され被災状況が分からなかった山古志村(当時)を目指して若手記者2人が小千谷市浦柄から約3時間、約10キロの山道を登った。泥だらけになりながらたどり着いた先で見た惨状に言葉を失った。あれから19年。40代となった記者2人が再び山古志へ向かい、過去の記憶と現在の姿を重ねながら再び「あの道」をたどった。(デジタル・グラフィックスセンター 小熊隆也、報道部 荒木崇)=2回続きの2=

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 道路をふさぐ土砂を乗り越え、やっとの思いで山古志村に入ると、手当たり次第に住民たちに話を聞いた。家や田畑を一夜で失い、先の見えない惨状の中、住民たちは目に涙を浮かべながら取材に答えてくれた。本当にありがたかった。

<2004年>泥で汚れた記者の取材ノート。「役場機能まひ」「村内行き来できず」と壊滅的な打撃を受けた村の状況を書き留めた

 もう一度、住民の話が聞きたい。農作業をしていた苅羽(かりわ)矢之助さん(76)=長岡市山古志竹沢=に声をかけた。当時を振り返ってくれた。

 「月がよく見えてね」。地震発生日の夜、気温が下がり冷え込んだという。苅羽さんは、近くの住民と山古志小学校(当時)に集まり、食材や鍋を持ち寄り夜を過ごしたという。確かに記者2人も10月24日昼ごろ、山古志小で住民の炊き出しに遭遇していた。

<2023年>「避難所におでんやみそ汁を持ち寄った」。震災直後を振り返る苅羽矢之助さん(右)

 当時、現場は携帯の電波が通じにくく、停電でテレビも見られない。情報源はラジオだったが、山古志のニュースはほとんどなかった。炊き出しをしていたという理容業の星野サツ子さん(74)=長岡市山古志竹沢=は「被害状況が分からず、住民同士で『ここがこれだけ被害があるから、東京はもっとひどいだろう』と話をした。そのくらい状況がつかめなかった」と振り返った。

 「情報がないのが一番不安だった」という星野さん。報道機関が取材に入るたびに「今の山古志の状況を映して(伝えて)ほしい」と訴えた。大勢の人の顔がテレビや写真に映れば、離ればなれの家族や友人に無事を伝えられる-。そういう思いがあったという。

<2023年>理髪店の前で記者と話す星野サツ子さん。「大勢の人に助けてもらった。これからもずっと山古志で生きていきます」

 炊き出しで記者2人は住民から、おにぎりを一つずつ渡された。何度か断ったが、「食べて」と言われて最後はありがたくいただいた。ノリの巻いてない真っ白なおにぎり。空腹の中、米粒をかみしめて感じた山古志の温かさと、助け合いながら生きるたくましさを決して忘れない。

 ただ、当時は記事におにぎりのことは書かなかった。被害状況を伝えるだけで精いっぱいだった。「なぜ、そのおにぎりの味を書かなかったのか」。後で上司から指摘された。住民の様子や息遣いをより具体的に、深く伝える機会を逃した悔しさがこみ上げたのを今でもはっきり覚えている。

 旧山古志村役場(現・長岡市山古志支所)を再び訪れた。当時、建物は浮き上がり、基礎と1メートル近くずれていた。余震も続いていた。「危険だから入るな」。職員にきつく言われたこと、「震度計が壊れるくらいの揺れだった」と聞いたことがよみがえった。建物は修復され、隣には全村避難と復旧・復興の歩みを伝えるやまこし復興交流館「おらたる」が整備され、多くの子どもたちの学びの場となっていた。

<2023年>長岡市山古志支所の震度計。当時の記事では「最初の激震で針が振り切れた」と書いた

 村長だった故・長島忠美さんを探すため山古志中学校(現山古志小中学校)を目指して再び歩いた。山古志中で取材し、一報の記事に盛り込んだ小池啓靖(ひろやす)さん(67)に19年ぶりに連絡を取り、自宅を訪れた。地震当日は牛舎にいて、山が崩れて土砂が押し寄せるのを目撃。慌てて自宅に戻ると、つぶれた家の下に家族が取り残されていた。チェーンソーで材木を切って助け出した。「ぺちゃんこにつぶれた家の下でよく助かった」と振り返る。

 震災後、小池さんは長岡市滝谷町に移り住んだ。震災後も牛を飼い続けたが、2021年に闘牛はやめた。錦鯉の養殖は今も山古志で続けている。

 秋になると山古志や小千谷には多くの錦鯉バイヤーが訪れ忙しくなる。「コイの時期になると地震を思い出す」と語る小池さん。山を下りた今も毎日のように山古志へ向かい、錦鯉の世話をする。「山の生活はいい」と笑った。 

 当時、山古志の状況を朝刊に入れるため午後2時ごろ取材を切り上げ、登ってきた道を下り、泥だらけの姿で小千谷支局に戻った。真っ暗な部屋の床にノートパソコンを広げ、携帯電話の画面の明かりで取材メモを見ながら原稿を打った。書き出しはこう始めた。

 「このままだと、山古志村がなくなってしまう」。長島忠美村長の悲痛な言葉だ。

<2023年>日が傾き始める中、帰路につく記者。震災当時は体中泥だらけになりながら小千谷支局へと急ぎ、暗がりの中で原稿を書いた=小千谷市浦柄

 中越地震から19年。記者2人も年を重ねたが、住民の息遣いを伝える大切さを学んだ原点はこの場所にある。

 当時約2200人だった山古志地域の人口は10月1日現在、759人。地震は住民の生活を揺さぶり、多くの人生を変えた。山に残った人、地震を機に離れた人…。それぞれの思いを胸に、また「あの日」を迎えようとしている。

<2023年>上空から見た長岡市山古志地域。かけがえのない景色はこれからも続く

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▽当時の新潟日報の記事(記事をクリックすると拡大します)

[(/common/dld/pdf/86feaf180c0db3d02fb50ec4f0344597.pdf)

2004年10月25日 新潟日報社会面

撮影=長岡支社 芳本卓也
グラフィックス作成=デジタル・グラフィックスセンター 継田麗子

<2023年>「避難所におでんやみそ汁を持ち寄った」。震災直後を振り返る苅羽矢之助さん(右)
水害のように道路に水が流れ込んだ小千谷市浦柄の集落
<2023年>理髪店の前で記者と話す星野サツ子さん。「大勢の人に助けてもらった。これからもずっと山古志で生きていきます」
激震で機能がまひした旧山古志村役場
至る所で道路が陥没、ひび割れていた
土砂崩れで崩壊した家屋。地形もろとも姿を変えた
<2023年>長岡市山古志支所の震度計。当時の記事では「最初の激震で針が振り切れた」と書いた
土砂が家や車をのみ込み、辺りには家具や衣類が散乱した
<2004年>土砂でつぶされた原形をとどめない家屋。電柱や標識も曲がった
陣頭指揮を執る長島忠美村長(中央)。目が充血していた
<2023年>左の写真と同じ場所で撮影。当時は被害の大きさに声を失った
<2023年>日が傾き始める中、帰路につく記者。震災当時は体中泥だらけになりながら小千谷支局へと急ぎ、暗がりの中で原稿を書いた=小千谷市浦柄
<2023年>上空から見た長岡市山古志地域。かけがえのない景色はこれからも続く
2004年10月25日 新潟日報社会面

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