今夏行われた女子ワールドカップ、そしてアジア大会でインパクトを残した日本の女子サッカー。
なでしこジャパンはワールドカップでベスト8に終わったものの、そのエネルギッシュなプレーは世界の話題を集め、日本のサポーターからも拍手喝采を受けた。
またその後行われたアジア競技大会ではほぼ国内のWEリーグとなでしこリーグ選抜といえる若いメンバーで臨みながら、強豪を次々と破って金メダルを獲得することに成功した。
2011年にワールドカップを制覇したあと、この数年はしばらく斜陽の日々を過ごした日本の女子サッカーが再び盛り上がりを見せている。これから開幕を迎えるWEリーグにも好影響を及ぼしそうだ。
それを前に、Qolyではかつてなでしこジャパンのストライカーとして2003年と2007年のワールドカップ、そして2004年のアテネ五輪に出場した大谷未央さん(現レイラック滋賀レディース監督)に直撃取材した。
1998年に田崎ペルーレへと加入し、それから10年にわたってLリーグ(なでしこリーグの前身)でゴールを量産した大谷未央さん。180試合で150ゴールという驚異的な成績を残し、代表でも長くエースを務めた経験を持つ。
先日公開したインタビュー第1回に続き、第2回となる今回は大谷未央さんが経験した女子ワールドカップやオリンピックについて伺ってみた。
驚異的だった「アメリカのスポーツ文化」
――大谷さんが初めて出場したワールドカップは2003年でしたね。あのときはアメリカが会場でした。
中国で行われるはずだったんですけど、当時SARS(サーズ)という感染症があって、開催地が変更になったんですよ。そしてアメリカに変わりました。
2003年の頃は、私たちは大会に出場すること自体が大変でした。アジアの予選を勝ち抜くこともとても難しかったです。当時のトップは中国と北朝鮮で、あとは韓国と日本が入れるのかどうかという力関係でした。
そこで私たちは予選で韓国に負けてしまって、プレーオフでメキシコとホーム&アウェイで対戦して、その結果ようやく出場権を勝ち取ったんです。予選が過酷すぎて、そちらの苦労のほうが強く印象に残っていますね。
――本大会の初戦となったアルゼンチン戦ではハットトリックを決められましたね。どんなものを見た大会でしたか?
私自身は初めて世界を体感した大会でした。個人的なことでいえば、その舞台でどこまで通用するのかという挑戦の大会でもあったので、初戦で成果を出せたのは自信になりましたね。
――チームとしては残念ながら決勝トーナメントには進めませんでしたが、澤穂希さんや宮間あやさん、丸山桂里奈さんなど2011年大会のメンバーがいましたね。
澤さんは私より1歳年上で、そのときにはすでに絶対的な存在でしたね。アメリカでもプレーされていたので、まさに別格でした。世界で戦っている選手と対等にプレーしている姿を見て、やっぱり私はまだまだだなと思わされましたね。
桂里奈や宮間は本当に若い頃だったので、チームのために一生懸命という感じでしたね。絶対的ではなかったですけど、様子を見ながらでも自分の良さを出してくれていたという印象です。
――当時のアメリカといえば、まさに女子サッカーの最先端を走る国でした。どのようなプレー環境でしたか?
環境はとにかくすごかったです。お客さんが当たり前のように2万、3万と入るんです。しかも、それがアメリカと関係ない試合でもです。
日本とアルゼンチンの試合でも2万人以上のお客さんがスタジアムに入っていました。街を歩いていても「頑張って!」と声をかけてくれるような感じでした。
そもそも「スポーツを見に行くのが当たり前」というか、どこかを応援するだけではなくて、その雰囲気を楽しみたいという方々がたくさんいました。やっぱりすごいなと思わされましたね。
サッカーを知らない人であっても当たり前のように足を運んで「スポーツを見たい、それをエンジョイしたい」という方が本当に多いんです。
宮間が「女子サッカーを文化にしたい」と言っていたじゃないですか。まさしくアメリカがその例で、私たちはそれをすごく実感させてもらったんです。
スポーツを見て力をもらいたい、感動したい。そして目で見えるものをパワーとして受け取ろうとする。
そんなアメリカのスタイルを見て、だからあれだけサッカーも強いのかなと思わされました。その中でも最も応援されていて、国をあげて後押しされている。そこはすごく違いを感じましたね。
アテネ五輪で感じたかすかな希望「アメリカ相手でもやれる」
――そしてワールドカップの翌年はアテネ五輪に出場されます。アメリカとは全く違う環境での試合だったと思いますが、どんな大会でしたか?
オリンピックはサッカーだけが行われるわけではないんですけど、女子サッカーは開会式の前から始まって、全ての競技で一番最初にスタートなんです(笑)。日本選手団の先陣を切って…という感じでした。
このアテネ五輪では、予選がとても盛り上がったんです。日本で開催されて、初めて3万人ものお客さんが国立競技場に来てくださって、14年間一度も勝てなかった北朝鮮に初めて勝ったんです。
しかもその試合でオリンピックへの出場を決めたということで、メディアのみなさんもたくさん取り上げてくださって。その影響もあって、本当に少しだけ「文化」になれた感じでした。
そのようなパワーを頂いてオリンピックに臨むことができましたね。サッカーだけではないエネルギーがとてもありました。
――その3-0で勝利した北朝鮮戦では大谷さんもゴールを決めましたね。個人としても一番いい時期だったと思います。
そうですね。ワールドカップを一度経験して、足りない自分を感じて、それからもう一度世界にチャレンジという気持ちで臨めました。このタイミングでオリンピックに出られたのは大きかったですね。
オリンピックは他の競技の選手とも応援し合うというか、支え合いながら戦っている感覚がありますね。サッカーでのワンチームではなく、スポーツでのワンチームになった感じで、すごく心強いです。支えてもらっている土台の違いを感じましたね。
――環境という面ではどうでしたか?
オリンピックは選手村があるので、食事面は助かりましたね。日本食もありましたし。いろいろな国の選手がみんな同じ食堂で食べるんですけど、そこでもある程度バランスよく選ぶことができるので、そこまで苦労はしませんでしたね。
私たちのときはまだシェフがつくことは当たり前ではなかったので、海外に行ったらそこで食べられるものを頑張って吸収するかという感じでした。
もともと日本食に頼ることができなかったので、できないことをむしろ楽しみましたね。ないからダメではなくて、そのなかで工夫をしていました。ふりかけとか醤油を持ってきたり。
――そういうところは昔の選手のほうがタフかもしれませんね。この大会では決勝トーナメントに進出して絶対王者アメリカと対戦しました。その印象はいかがでしたか?
その何年か前にアメリカ代表と日本代表の試合が日本で開催されたんです。そのときに全く相手にならない日本を見ていました。2003年のワールドカップのときも、キャンプでアメリカとトレーニングマッチをしたんです。そこでも差は歴然としていて、試合も負けました。
ただ、この大会では「やれる」という手応えも感じられました。アメリカはまさに「世界って遠いよね」という相手でしたが、ちょっと「もしかしたら…」という僅かな光が見えたところはありましたね。
「パスサッカーの基礎」は2007年女子W杯で生まれた
――そして時は2007年。今度は中国でのワールドカップでした。2011年の優勝メンバーもかなり入ってきて、佐々木則夫さん(2008~2016年なでしこジャパン監督)がコーチをされていましたね。
私はこの大会でピッチに立つことができなかったので、すごく複雑な思いもありましたね。
ただ、その2011年の大会に出場したメンバーは本当に優秀な選手たちだったので、「あの子たちにはかなわないな」というのもありました。もちろん「負けていられない」という自分もいて葛藤は大きかったんですけど、逆に言えばそれを経験したことは大きかったですね。
私はクラブに入った1年目からレギュラーでしたし、試合に出られないのは怪我をしている時くらい。プレーできないことがないまま、そこまでやってきていたんです。
2007年は、初めて「試合に出られないときに何をすればいいのか」を気付かされた大会でしたね。もしこれを経験しなければ、試合に出られない選手の気持ちは全く分からなかったと思いますし、指導者になった今に生きています。
この大会では阪口夢穂(2011年大会の優勝メンバー)も出場がゼロだったんです。でも「この子たちをいずれ世界で輝かせるためには、中堅やベテランの私たちが落ち込んでいる姿を見せるわけにはいかない」と。
「次は頼むよ」と後押しをする役割だったのかなと感じますね。
――もちろんそれが2011年の優勝に繋がるわけですが、この2007年のなでしこジャパンはどんなチームでしたか?
非常に可能性を感じるチームでしたね。それまでは本当にいっぱいいっぱいでやっていたんです。技術的にもそうですし、戦術的にもそうです。
ただ大橋浩司監督(2004~2008年)になってからは「ポゼッションサッカーというのはこれだ!」と。戦術的なトレーニングもかなり多くなったんです。
それまでは個人の力と、上田栄治監督(2002~2004年)がちょっとずつ作った守備の戦術で戦っていました。でも2004年は攻撃面で課題が多いところもありました。
ボールを持てる選手が多くなったというのもあって、そこで「ポゼッションサッカーをやろう」と。バルセロナの映像をいろいろな形で見せてもらって、参考にグラウンドで戦術トレーニングをする…というのをこのときに初めてやりました。
――今のいわゆるなでしこジャパンの戦い方のイメージは、ここからスタートしていたんですね。
ここからなんです。そして佐々木さんもここからの流れを引き継いでのスタイルだったと思います。
コーチ時代の佐々木さんは…監督になってからと全く同じですね(笑)。ノリさん!と気軽に話しやすいおじさんという感じです。
――岡田武史さんは監督になって選手との接し方が全く変わったと言っていましたが、佐々木さんは変化なしなんですね。
女子の指導をする男性の方って、シビアにやりすぎると合う合わないが出てきてしまうのかな…というのは感じますね。ガツンとやってついてくるかというと…。
みんなそれぞれ個性あるメンバーだったので、それぞれの考えも持っていますし、ノリさんはそれを尊重してくれるタイプでした。それが良かったのかもしれないですね。
もちろん、話を聞いても変えられない事情があることもあるんですけど(笑)、そこはうまくバランスを見てやってくれていました。
聞いてくれるだけでもみんな納得する部分はありますしね。ノリさんはコーチの役目もできますし、監督になったら選手のいい部分を尊重してくれていたので、それが本当にうまく繋がったんじゃないかなと感じます。
――このチームは2011年の主力になった選手が多かったですけれども。
そうですね、このあとの2008年の北京五輪でベスト4に行くことになるんですけど。この2007年のワールドカップで世界との差を縮めたという実感が生まれて、これは行けるんじゃないかという自信になったのかなと。だから北京五輪でベスト4にまで進むことができて、それがさらに自信になった。
それから4年が経って、2011年のワールドカップ優勝に繋がったんだと思います。
「人間味があった」今年のなでしこジャパンが魅力的だったワケ
――話は飛んで今回の女子W杯。率直にどんな感想をお持ちでした?
ワクワクしましたね。ちょっと前は「大丈夫かな?」とか、いろいろなプレッシャーに押しつぶされているんじゃないかなとか。「世界一を取らなければいけない」という重荷を背負っている感じがしていました。
ただ今大会を見て、「重荷を背負った上での覚悟」に加えて、それにうまく自信が重なってあのようなパフォーマンスに繋がったのかなと思います。
結果はついてこなかったですけど、日本らしさという部分ではハードワークやひたむきに頑張る姿を見せてくれたので、もう一歩女子の魅力を継承してくれたのかなと感じました。
―結果以上に「なでしこってすごいな」「なでしこ面白いな」という印象を与えた大会だったように思います。
イキイキしているというか、伸び伸びしているというか…。それは自分のためだけではなく、チームのためとか、未来ある子どもたちに何かを与えたいとか、日本の国民に何かをもたらしたいという思いが上手くプレーに繋がったのかなと感じます。
映像を見ていても、サッカーが面白いかどうかではなくて「人間味がある」。楽しいとか、悔しいとか、そういう表情がとても現れていました。
「表現力」と言えばいいんでしょうか。そのようなところがとても魅力的だったのではないかと思います。
ギクシャクすることなく、お互いにリスペクトしあって伸び伸びやっている。そこがうまく行っていないチームは、外から見ていてもわかりますよね。そのようないい信頼関係が築けていたんじゃないかな、と感じました。
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2003年に女子ワールドカップが開かれたアメリカでは、サッカーを知らない人も「ワールドカップというスポーツイベントを楽しむ」ために他国同士の試合にも多くの観客が詰めかけていたという。
今もスポーツビジネスでは世界の最先端を進み続けているアメリカの文化。それを体感したことは今も衝撃として残っているそうだ。
また、なでしこジャパンが2003年から2007年にかけて徐々に「スタイル」を作り上げ、そして2011年に花開く…という粘り強い強化を行っていたことも興味深いポイントだ。
なお、次に公開する第3回では、指導者となった大谷未央さんに「男子と女子の違い」について、コミュニケーションや怪我防止法、コートの広さ、ユニフォームなど細かいところまで聞いてみたぞ。お楽しみに。