あの頃は強かった…アヤックスの歴史を彩る「最強5名のレジェンド」

現在エールディビジで最下位に沈んでいる名門アヤックス。かつては世界有数の強豪として名を馳せたものの、今季は多くの選手を放出したことでチームが崩壊寸前となっている。

今回はそんなアヤックスにおける「最高のレジェンドTOP5」を『sportsbrief』からご紹介する。

5位:ヤリ・リトマネン

アヤックス所属:1992~1999、2002~2004

アヤックスのレジェンドであり、そしてフィンランドサッカーの歴史上最高の選手であるヤリ・リトマネン。国内リーグでの活躍によって注目を集め、1992年にアヤックスへと加入した。

デニス・ベルカンプにかわって10番のユニフォームを受け継ぎ、ルイス・ファン・ハール監督の下でレギュラーを獲得。1995-96シーズンにはチャンピオンズリーグで9ゴールを決めて得点王になり、優勝の立役者の一人になった。

フランク・ライカールトも「デニス・ベルカンプは素晴らしかったが、アヤックスにおける最高の10番はヤリであった」と語ったほどだったが、20代中盤以降は多くの怪我に悩まされてしまったのが残念だった。

バルセロナとリヴァプールを経て2002年に復帰したときもアヤックスのサポーターには大きな歓迎を受けたものの、大半の試合を欠場しなければならなかった。

マルコ・ファン・バステン

アヤックス所属:1981~1987

怪我によってそのキャリアはとても短いものであったが、28歳で引退するまで通算300ゴール以上を決めた伝説のストライカー。あらゆる形でゴールを決められるシュートテクニック、アクロバティックなプレーで一時代を築いた。

1981年に16歳でアヤックスに加入し、ヨハン・クライフとの交代でデビューを果たすといきなりゴールを奪取。次年度には名FWキーフトを追い出す形でレギュラーとなり、オランダ代表でもエースストライカーとしての立場を固めることになった。

エールディビジで4年連続の得点王に輝き、1987年にはルート・フリットとともにACミランへと移籍。イタリアでは足首の継続的な怪我に悩まされながらも印象的なゴールをいくつも決め、バロンドールも受賞した。

残念ながら3度目の足首の手術を終えたあとは2年間以上プレーできない状況を経験し、若くして現役引退を余儀なくされてしまった。しかしながら全盛期のプレーはまさに歴史上最高のストライカーと言えるものだった。

3位:フランク・ライカールト

アヤックス所属:1980~87、1993~95

オランダの歴史上最もパーフェクトなミッドフィルダーであったと評価されるライカールト。190cmの身長を持ちながらも技術、戦術、パワー、スピードを兼ね備え、さらにエレガントなスタイルを持っていた。

スリナム出身のサッカー選手を父に持ち、ルート・フリットとともにアムステルダムで育った。1979年にアヤックスへと加入すると、17歳でトップチームに引き上げられてすぐにレギュラーを奪取した。1987年にヨハン・クライフ監督と衝突するまで7シーズンに渡って活躍した。

その後ACミランで中心的な役割を果たし、そして1993年にアヤックスへと復帰。ファン・ハール監督の下でチャンピオンズリーグを制覇した1995年に現役引退した。

監督としてもバルセロナを黄金期に導くことに成功し、一時代を築いている。

2位:ピート・カイザー

アヤックス所属:1961~1974

ヨハン・クライフとともにアヤックスの「トータル・フットボール」を支えた左ウイング。1961年に下部組織から昇格してデビューし、若くしてインサイドアタッカーのレギュラーを獲得したものの、カップ戦でヘディングシュートの際に頭蓋骨を骨折する大怪我を負う。

二度と意識が戻らないかもしれないという怪我から8ヶ月ものリハビリを経て奇跡の復帰を果たすと、リヌス・ミケルス監督によって左ウイングにコンバートされた。それからアヤックスのワン・クラブ・マンとしてプレーし続けた。

1974年にハンス・クラーイ監督との確執をきっかけに引退するとサッカー界を離れたが、2001年にはアヤックスでスカウトとして復帰。更に技術顧問や名誉会員として活動し、2014年からは代理人として会社を設立していた。2017年に肺がんのため死去している。

同年代のヨハン・クライフのほうが有名であるが、クライフ自身も「彼は理想のウインガー」と評価した名選手だった。1973年にアヤックスの選手に「キャプテンを誰にするか」と無記名投票を行ったところ、クライフを上回る得票を得たことも。

1位:ヨハン・クライフ

アヤックス所属:1964~73、1981~83

10歳の誕生日にアヤックスの下部組織に加入したヨハン・クライフ。近所に住んでいたファン・デル・フェーンという人物がアヤックスのユースコーチを務めており、クライフはその才能を認められて練習参加もなしに加入することができたという。

クライフ自身は15歳まで野球の方を好んでいたというが、その後コーチの誘いでサッカーに専念。そして1964年にトップチームでデビューを果たした。それからすぐにチームの中心選手へと成長し、1965-66シーズンは25ゴールを記録してリーグ優勝に導いた。

名将リヌス・ミケルスとともにポジションチェンジとプレッシングを導入した「トータル・フットボール」と呼ばれる戦術の根幹となり、バルセロナとオランダ代表でも一時代を築いた。

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1978年に一度引退したものの、その後投資の失敗で抱えた損失をカバーするためにアメリカで現役復帰し、それから数年後にアヤックスへと復帰。晩年も再び赤白のユニフォームを着て数年間プレーした。

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