ボーダーフル・ジャパン 第6回 「宮崎のとなりまち・清武の思い出」

都城から清武町へ

2010年に宮崎市に編入されてしまったが、かつては宮崎郡に属した清武町。宮崎空港から車で5キロほど、JR南宮崎駅から電車に乗ると2分で宮崎市との境界に面していた加納に着く。そこからさらに5キロほど行けば、まちの中心だ。

1974年、新設された宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)に都城高専から父親が異動することになった。そのため、幼少時を過ごした都城を離れることになった。振り返れば、都城もなかなかの田舎であったが(特に高専のあった沖水近辺は)、清武のそれは輪をかけていた。

作られたばかりの公務員宿舎はまちの中心に近かったが、都会の宮崎市は、山と川で隔てられ遠い印象だった。

私は小学校6年で編入学。市内の学習受験社なる塾に通い、卒業まで半年ほどしか住むことはなかった。だが、父親がここで定年を迎えることになるため、清武には何度なく帰省した。都城につぐ第2の故郷である。

青島海岸での海水浴

山中の盆地・都城と違い、山に囲まれていても清武は海に近い。日南海岸の風景は私にはとても新鮮だった。都城にいた頃、連れていってもらった青島やこどものくにもすぐだ。都城では見たことのない海や空の青さが印象的だった。

プロ野球のキャンプの地

極めつけは、野球。当時から、読売ジャイアンツと広島カープが春先にキャンプをはっていた。「巨人の星」の星飛雄馬の悲劇的な恋愛も宮崎が舞台だ(ちなみにこの恋愛が原因で星は2軍のキャンプ地・都城行きを宣告される)。そして、当時の巨人軍はV9もあり、人気も実力もずば抜けていた。

1975年3月、前年にオープンしたばかりの宮崎市営球場(当時)で巨人対広島のオープン戦が開かれた。人生、初めてのプロ野球をこの内野席で見た。王貞治の勇姿をおぼろげながら覚えているが、広島は赤ヘルに変えてこの年、初優勝。監督はまだ古場竹識になる前だから、ルーツ監督だったに違いない(シーズン当初は「借金」が多く、4月末に辞任)。

巨人対広島(オープン戦)

私の父親も田舎の人間にありがちに、テレビでしか見てないため、巨人ファン。だが、その後、毎年、キャンプ見学に通った。その時、巨人の選手は偉そうで相手にしてくれない。一方、広島の選手は気さくにサインや握手をしてくると広島びいきになっていった。

ボーダフル・ジャパンのきっかけ

先日、清武を再訪した。まだ私が暮らしていた宿舎は健在だ。とはいえ、大学も増え、特急さえ停車するまちへと変貌していた(といっても、都会の雰囲気は相変わらず、ない)。2022年9月から1年間、北海道大学総合博物館の境界研究ユニットのブースで行ったANAと宮崎交通のコラボ企画。

都城に加えて、この清武の思い出が私を突き動かした。

(これまでの寄稿は、こちらから)

寄稿者 岩下明裕(いわした・あきひろ) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授

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