古くからヒトやモノが往来した街道沿いで、旅人のために、宿や人馬の輸送機関(問屋場)を置いた集落「宿場町」。東西を結ぶ交通の要所でもある東海エリアには多くの街道が通り、宿場町が点在していました。旅人相手に、グルメや生活用品をはじめとする特産品を売り出す宿場も少なくなく、各宿場の「名物」として、旅の楽しみにもなっていました。ここでは、かつての「名物」が今も残るトウカイの宿場町を紹介します。
東海道五十三次の内の「岡崎宿」(愛知県岡崎市)〜矢作川のほとりに発達した二十七曲りの宿場町と八丁味噌〜
東海道最長の橋と二十七曲りの街並みを持つ「岡崎宿」
岡崎宿の前身は、中世、矢作川沿いに置かれた鎌倉街道の矢作宿です。
15世紀半ばごろ、すぐ近くに岡崎城が築かれ、16世紀前期、徳川家康の祖父・松平清康の代に城下町として発達しました。
天正19(1591)年に東海道を城下に導き、東海道で最長の矢作橋(208間=約370メートル)が築かれました(『愛知県地誌』より)。
1601年に東海道の宿駅制度が整備されると、東海道五十三次の「岡崎宿」として大いににぎわったといいます。
防衛と街並み伸長のために道筋の変更が重ねられ、「東海道岡崎城下二十七曲り」と呼ばれる屈折の多い街道となっていきました。
18世紀末の『東海道名所図会』には、曲がりくねった街並みが描かれ、「城下の町員(数)は百六十餘町廾七曲(にじゅうななまがり)といふ当国都会の地にして商人多く繁昌の所也」 という案内文が記されています。
幕末の『宿村大概帳』によると、本陣・脇本陣数が各3軒、旅籠屋は 112 軒。
戦災などによって宿場の建物等はほとんど消滅してしまいましたが、わずかに残った江戸時代の常夜灯や道標、商家の看板をたどって、その面影に想いをはせることはできます。
矢作川の伏流水で育まれた「八丁味噌」
「売人(あきんど)多く万(よろず)の物たらずという事なし」とうたわれた岡崎宿の名物に、「八丁味噌」があります。
600年ほど前から、地元の大豆と矢作川の伏流水を用いて醸造されてきたと伝わる豆味噌で、岡崎城から西へ八丁(約870メートル)のところにある八丁村(現・岡崎市八帖町及び八丁町)で作られてきたことからその名が付いたといわれています。
大豆と塩を原料に大きな木桶に仕込み、二夏二冬(2年以上)天然醸造させることによって、大豆の旨みを凝縮した濃厚なコクや、少し渋みのある独特の風味が特徴です。
また素材と製法にこだわった八丁味噌には、活性酸素の働きを抑えるメラノイジンが多く含まれているそうで、健康効果も注目されるところです。
岡崎生まれの徳川家康も好んで食べたと伝わっており、その長寿を支えたのは「八丁味噌」だったともいわれるほどです。
現在も、2軒の老舗が昔ながらの製法で味と伝統を守っており、一般の私たちもその一端に触れられるよう、味噌蔵見学も受け入れています。
少しクセがあるといわれる八丁味噌ですが、味噌汁のほか、味噌おでんや味噌煮込みうどん、味噌かつなどに使うと、コクのある味わいが生きて、とても美味しく食べることができます。
八丁味噌について知りたくなったら
岡崎市観光協会では、八丁味噌を使ったグラタンやカレー、肉味噌トーストなどのレシピもホームページで公開しているので参考にしてみてもいいかもしれません。
江戸時代の人たちも食べていた八丁味噌を現代の私たちがいろいろな料理に使って、その美味しさの可能性を広げられると思うと、少しワクワクしませんか。
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