最高 VS モヤモヤ まるでハリウッドがリメイクした「初代ゴジラ」 『ゴジラ-1.0』 茶一郎レビュー

はじめに

お疲れ様です。今年一番の邦画大作『ゴジラ-1.0』通常版と、IMAX版と計2回観てまいりました。驚きましたね。予想を超える素晴らしい出来。シリーズ屈指の恐怖度。もうゴジラをしっかり怖く描けているというだけで成功作と言って良いのではないでしょうか。映画全体としては凄く良かった瞬間2回(+2.0)不満点3つ(-3.0)、全部足して個人的『ゴジラ-1.0』も丁度「-1.0」になるというそんな映画体験でございました。

初見時の感想

初見時の印象は、すでにポストした通り、7年前の『シン・ゴジラ』が岡本喜八監督に捧げられた1984年版の『ゴジラ』だったとすると、本作はスピルバーグに捧げられた1954年版、最初の『ゴジラ』という感じ。「もしも」ハリウッド版「ゴジラ」一作目「エメリッヒ版『GODZILLA』が超成功していたら本作のような感じになっていたのでは?」と書きました。本作『ゴジラ-1.0』は、ハリウッドがもし1954年の『ゴジラ』をリメイクしたら、こうなるんじゃないかという、そういう仕上がりに近い感覚を受けました。本作は公開日を最初の『ゴジラ』公開日である11月3日の文化の日に合わせただけではなく、1954年の『ゴジラ』(便宜上以後「初代ゴジラ」と呼ぶ事にします)の設定を、時代背景を含めかなり取り込んでいます。

ですが、良い意味でオタク臭くないというか、理屈っぽくない、「初代ゴジラ」に近づけた「ゴジラ」を作るとなるといくらでもオタク的小ネタ、コラージュを入れ込めると思うんですが、そういったアプローチをせず、ハリウッドに負けない映像技術で、巧みに「初代ゴジラ」を王道の娯楽映画に仕上げたというのが『ゴジラ-1.0』だと思いました。故に広く観客に受け入れられるような、邦画界きってのヒットメーカー・山崎貴監督らしい映画であると同時に、しっかり特撮ファンにもお土産をくれるような出来になっているという…驚きました。失礼ながら結構ハードルは低めに鑑賞しましたが、そのハードルを遥かに超える出来の一本でした。

リメイクのような映画

「初代ゴジラ」リメイクのような映画と言いました。本作『ゴジラ-1.0』は一応、リメイクではない事になっていますが、リメイク的に「初代ゴジラ」から巧みに要素を抽出して、今っぽい映画にしています。結構、感心してずっと観ていました。まず『ゴジラ-1.0』ファーストショットから「初代ゴジラ」で。ファーストショットは「海」「海面」。これは「初代ゴジラ」の最初のショットを繰り返している訳ですが、主人公、神木隆之介さん演じる戦闘機パイロットである敷島が、大戸島の飛行場に着陸するという『ゴジラ-1.0』導入です。

「呉爾羅」が古くから伝わるゴジラの聖地とも言える大戸島が、いきなり登場します。主人公・敷島少尉は特攻隊員で、乗っていた戦闘機の故障から一時、この大戸島の基地に来たと、しかし整備兵がその戦闘機を見ても、故障箇所が見つからない。主人公は故障と偽って、特攻から逃げてきた人物だと明かされます。まず「初代ゴジラ」と最初のショットを重ねながら、「海」というイメージを意識させる本作の導入です。

終戦後、主人公は東京に戻りますが、そこで出会った浜辺美波さん演じる典子と、戦争孤児で血は繋がっていない典子の連れ子と一緒に共同生活を始める事になります。ここで「擬似家族」というモチーフ、主人公・敷島にとっては「父になれない父」「父ではない父」の物語というドラマが浮き上がってきます。『万引き家族』が代表例ですかね、「父になれない父」という事で、山崎貴監督の「三丁目の夕日」シリーズの茶川の物語と重ねても良いかもしれません。

この「擬似家族モノ」と言うと大袈裟ですが、近いモチーフは「初代ゴジラ」にもあって、山根博士の一家。山根博士という古生物学者の元に、ゴジラで家族を失ったゴジラ孤児の新吉という青年が居候をして一緒に食卓を囲んでいるという描写があります。後に『ゴジラVSデストロイア』で新吉は博士の養子になった事が明かされますが、本作は実は「初代ゴジラ」にあった孤児の居候・戦後共同体のモチーフを今風の「擬似家族モノ」に翻案する巧みなリメイク的要素抽出を行っています。

一番感心したのは「機雷」でした。これは上手かったですね。本作『ゴジラ-1.0』で主人公・敷島は(擬似的な)家族のためお給料は良いが危険な仕事に就くと。それが機雷撤去の仕事でした。ちょっとご説明すると、「飢餓作戦」という名前を聞いた事ある方いらっしゃるかもしれません。太平洋戦争末期にアメリカ軍が日本への物資輸送を止めるため大量の機雷を海に投下しました。その作戦の主力が本作でも登場する船の金属に反応して爆発する磁気感応式の機雷だったと。戦後もこの機雷に国民は苦しむことになります。ちなみにアメリカ軍の機雷だけではではなく、旧日本軍が防衛のために海に投下した浮流機雷が戦後、海岸に流れて爆発して市民が亡くなったという事故もありましたので、国民が苦しんだのはアメリカ軍の機雷だけではありません。

なぜ、この「機雷」の話をしたのかと言うと「初代ゴジラ」は、かなりこの「機雷」の恐怖が背景にある映画だからです。「初代ゴジラ」の冒頭で、ゴジラが貨物船「栄光丸」の海難事故を報道する新聞記事が挿入されますが、その見出しが「浮流機雷か」つまり当日の国民は海難事故が起こった際、まず機雷を疑ったと。他にも「初代ゴジラ」で主人公・尾形が大戸島に向かうと、その時、「危険水域は避けるけど」と言います。このセリフだけだと分かりづらいですが、これは「機雷の危険水域」を指しています。物凄く「初代ゴジラ」根底には現実の、当時の観客が感じていた「機雷」の恐怖というのがあったんですね。そしてまさしくその主人公・尾形は南海サルベージの所長、潜水夫で、おそらく海上保安庁から依頼を受け、難破船の撤去だったり、機雷の撤去だったり港湾の復興に携わっていた事が暗に示されている。

この尾形の人物像を一部、敷島に抜き出して、「初代ゴジラ」に描かれていた「機雷」というモチーフを、『ゴジラ-1.0』では前面に押し出したという。別に「初代ゴジラ」を知らなくても全然、分かる絶妙な匙加減で、「初代ゴジラ」からイメージを抽出するという、かなり巧みな“50%リメイク”というか、リメイク的な要素の抜き出しだったなと、この辺りは上手くて感心して観てしまいました。

『シン・ゴジラ』へのアンサー

他にも「初代ゴジラ」を意識したようなモチーフはありますが、主に「海」「擬似家族」「父になれない父」このあたりのキーワードが上手く“リメイク”、リメイクではないけど“リメイク”されているなという印象でした。そしてこのキーワードはそのまま7年前の『シン・ゴジラ』では描かれなかった要素を指します。すでに公開前のインタビューで山崎監督「『シン・ゴジラ』が偉大だったので、同じことをしても勝てない。今回、『シン・ゴジラ』では描かれなかったものを描く」と仰っていましたが、『シン・ゴジラ』と本作『ゴジラ-1.0』はそれぞれ独立したゴジラ映画ながら、お互いがお互いを補って、時に反発、カウンターしている不思議な関係性をもった二作品となっています。

『シン・ゴジラ』で描かれなかった、本作で描かれた要素というのは、予告からも分かりましたが「一般市民のヒューマンドラマ」という事ですね。ご存知の通り、『シン・ゴジラ』は基本的に政治家、官僚、国の研究機関、政府側の人物を主要キャラクターとして、徹底的に「個」の、個人的なドラマを排した作品でした。これは東宝側から「ヒューマンドラマを入れてくれ」と依頼された庵野総監督が、それを拒否して、元は主人公と元恋人とのドラマとかあったそうですが、そういったドラマ部分は全て排除したという異例の作品でした。

一般的にヒューマンドラマと呼ばれる感情の葛藤は一部の主要登場人物を除いてほとんど描かれない。一般市民が描かれない、エリート主義から『シン・ゴジラ』を批判している方もいらっしゃいましたが、本作は真逆です。『シン・ゴジラ』が国側なら、『ゴジラ-1.0』は民間。『シン・ゴジラ』がエリートなら、『ゴジラ-1.0』は一般市民。『シン・ゴジラ』が岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』なら、本作は『肉弾』ですね。真逆を行って「三丁目の夕日×ゴジラ」にしたのが本作で、全編、非常に政府・国に対する不信感が漂っていまして、真逆どころかどこか『シン・ゴジラ』に対する反発・カウンターとすら感じさせる作品に仕上がっていました。

もう一つ『シン・ゴジラ』に無かった要素についてお話ししたいんですが、少し早いですがここからはネタバレ注意という事で本編ご鑑賞後にご視聴頂けますようお願いします。非常にアトラクション性が高く、劇場で鑑賞する価値が大きい作品ですので劇場で上映している内にお見逃しなく。

!!以下は本編ご鑑賞後にお読みください!!

最高の海上戦

『シン・ゴジラ』に無かった要素として大きいのは「海」ですね。「初代ゴジラ」と同じく「海」のショットから始まって、海の仕事に就く主人公。序盤から「海」を意識させられる本作ですが、本作は海上戦が凄まじい、素晴らしかったですね。すでに山崎貴監督は『海賊とよばれた男』、何より『アルキメデスの大戦』の冒頭、戦艦大和の沈没シーンを凄まじいクオリティで描きました。今まで培ってきた海上戦描写の集大成とも言える本作『ゴジラ-1.0』の海上ゴジラ戦。これが凄かった。ようやくゴジラの話ができますが、まず本作でゴジラが初登場する冒頭。大戸島基地の夜、主人公たち整備兵はゴジラと遭遇する事になりますが…この冒頭、ちょっと「あれ?」って思いませんでしたか?というのもゴジラらしき巨大生物が結構、小さいんですね。前情報では「初代ゴジラ」より少し大きい50.1mと聞いていたので、この冒頭の小さいゴジラ、しかも頭が下に落ちていて、エメリッヒ版『GODZILLA』のあのイグアナと呼ばれた造形にそっくりのほとんど恐竜、ゴジラというよりゴジラザウルスという感じで「え?ちょっと待って、聞いていたのと違う…まさか今回これでいくの?やばくない?」と、しかもこの冒頭の撮り方も、そのままスピルバーグの『ジュラシック・パーク』そっくりにゴジラを切り取っているので、個人的には超不穏な始まりだったんですが、ある種、僕はこの冒頭で作り手の術中にハマっていたというか、今回の『ゴジラ-1.0』はこれを第一形態として、このゴジラザウルス=小ゴジラが1946年のビキニ環礁の核実験「クロスロード作戦」で被曝して、巨大化したのが今回のゴジラ、予告に出ていた大ゴジラという事でした。

小ゴジラを敷島と一緒に、観客に目撃させるこの冒頭が単純に映画のツカミというだけではなく、その後の海上戦で非常に効果的に働いていて、それはゴジラの巨大描写の強調ですね。海は市街地と違って、建物がないのでゴジラとの比較対象が少なく、かなり巨大感が演出しづらいシチュエーションだと思うんですが、冒頭で小さなゴジラを観客に見せて、そこから2倍も3倍もそれ以上に大きくなっているゴジラを登場させることで、巨大感がかなり増幅されて、まさに敷島と同じく「大きくなってる!」と思わずつぶやきたくなるくらい恐怖を感じさせる、見事なゴジラビフォーアフター演出になっていたと思います。

冒頭の『ジュラシック・パーク』から始まり、この木造船でゴジラと戦う海上戦は一応、山崎監督はインタビューで宮崎駿監督の「最貧前線」からインスピレーションを得たと仰っていますが、どう見ても『ジョーズ』っぽい、『ジョーズ』っぽいけど、巨大感含め、『ジョーズ』を「ゴジラ」的にアップデートした恐怖表現になっている最高のシークエンスだなと思いました。CGIの粗が目立ちやすい昼間のシーンなのに、違和感がほとんど無いというのも素晴らしかったですね。『シン・ゴジラ』が市街地、陸なら、本作は「海」「海上」だと言う『ゴジラ-1.0』この海上戦がまず最高に上がったポイント「+1.0」という感じでした。

至高の恐怖体験

「海」だけではなく「陸」も凄いというのが『ゴジラ-1.0』で、今回のゴジラも東京上陸。やはり「初代ゴジラ」同様、銀座に向かいます。この銀座シークエンスも素晴らしい。山崎貴監督が「ゴジラ」を撮ると聞いて、西武園ゆうえんちの「ゴジラ・ザ・ライド」的アトラクション感覚がどう映画として表現されるか期待されていた方も多かったと思いますが、この銀座シークエンスはまさにその観客の希望に応えてくれるアトラクション感覚と恐怖に満ち溢れておりました。

ゴジラ上陸の際、足元だけを映して巨大感を演出するのは2014年のギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』のハワイ上陸シークエンス同様ですが、中々、ゴジラの全身を見せない、何か越しにしかゴジラを見せない焦らしで期待と恐怖を煽っていたギャレス・エドワーズの演出とは異なり、本作『ゴジラ-1.0』はサービス精神満載。とにかく「ゴジラが近い」。典子の乗っている電車を口に加える。ここでゴジラの顔の超クローズアップ。人間とゴジラが近いこと近いこと。これはまさしく怪獣と乗客とがゼロ距離で、「食われる!食われる」キンググドラに食われそうになる、ゴジラの体を滑り台的に滑り落ちる「ゴジラ・ザ・ライド」的怪獣描写を映画でも見せます。

この電車のシークエンスは、『ジュラシック・パーク』の続編『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』のサスペンスシーンそのままだったり、ややアトラクション然としていて、ゴジラがサービス精神ありすぎだろとかも少し思いましたが、まぁ怖いから良しとしました。何よりゴジラさんによるアトラクション盛り上げの後ですよね。ゴジラが熱線を吐く。街が一瞬でなくなる。そして熱線の爆風で吹き飛ばされた後に、風圧でもう一回、吸い込まれるという、この恐怖の追い討ち、吸い込まれるという段階をしっかり描いていたのが非常に新鮮で良かったですね。

この徹底的な容赦のなさ。冒頭で申し上げましたが、ゴジラをしっかり怖く、恐怖の対象として描けているだけで、「初代ゴジラ」をベースにした作品として成功と言えると思います。『シン・ゴジラ』でも絶望感は十二分にありましたが、本作はより一般市民の視点で見たゴジラの恐怖が描かれる分、『シン・ゴジラ』の絶望感を遥かに超えて、とにかく「怖いゴジラ映画」として仕上がっていて、恐怖と共に感動しました。ここまで容赦なくゴジラの被害を描けるとはという事で、ここも「+1.0」でした。

コロナ禍の日本

本作『ゴジラ-1.0』は何度も「リメイクっぽい」と言っている通り、「初代ゴジラ」の構造をそのまま持ってきています。従って東京上陸・銀座襲撃の後は人間によるゴジラ撃退パートになる訳ですが、やはり『シン・ゴジラ』にカウンターをするかのように、今回は国・政府主導ではなく民間主導によるゴジラ撃退作戦を実行するという展開でした。

『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦的な日本の技術力が強大な困難に打ち勝つ下町ロケット」的展開ではありますが、今回はより下町感が強い。民間企業と元海軍による作戦となっております。先ほども言いましたが、本作『ゴジラ-1.0』は政府への不信感がずっと根底にあるんですよね。国がゴジラに対して何もしてくれないと。序盤から主人公が参加する機雷撤去木造船の佐々木蔵之介さん演じる艇長が、大戸島でのゴジラ出現を軍が隠蔽したことに対して、その体制の隠蔽体質に対して「変わらねぇなこの国は。変わらねぇな」と言わせたり、また後に、ゴジラ東京上陸をやはり政府が公表しないと、それに対して「隠蔽工作はこの国のお家芸」みたいな台詞ありましたね。2回も台詞で言わせている。

この政府に対する圧倒的な不信感は何なのか?と、パンフレットのインタビューで山崎監督は「コロナ禍以後、政府が機能していない感覚があった」と仰っていて、監督は現実と少なからず重ねた訳ですね。やはり本作、『シン・ゴジラ』との対比が非常に面白くて、『シン・ゴジラ』含め「シン三作品」は主人公が体制側だったり、体制の指揮下にいたり、ずっと政府の事を無批判に信用し切っているシリーズでしたが、山崎貴監督、特に本作『ゴジラ-1.0』はそうではないんですよね。山崎監督は『アルキメデスの大戦』でも舞台は日露戦争後でしたが、明らかに東京オリンピック前の当時の日本と作品の舞台を重ねて、元々、原作者が東京オリンピックへの疑問から描き始めた漫画だけあって、『アルキメデスの大戦』は東京オリンピック批判映画になっていましたね。この『アルキメデスの大戦』から続いて体制側に対する不信感が現れていた本作『ゴジラ-1.0』だったと思います。

山崎作品の演技演出について

当時の日本政府も、また冷戦下のアメリカもソ連を刺激するから戦闘に参加できないと、なら民間がやるしかないぞ!と立ち上がる「海神作戦」。『ゴジラ-1.0』僕は本当に終盤までの2回のゴジラ襲撃シークエンスは怖くて、最高で、何て素晴らしい作品なんだと、これは「初代ゴジラ」と並ぶ作品が作られたのではと錯覚しましたが、どんどんとラストに向かうにつれノイズが大きくなるんですね。冒頭で申し上げた「-3.0」の部分についてです。

まずこれは山崎監督作と僕の相性が悪いという結論になりますが、とにかく説明台詞、過剰な演技、ゴジラより役者さんが叫ぶ演技はやっぱり2回観ても慣れない。今までの山崎作品と比べると、劇伴も抑え目で、特に安藤サクラさんの存在感で大分、今までの山崎作品に比べれば演技のノイズは少なかったですが、慣れるには3回目、4回目の鑑賞が必要かなという感じでした。

「反戦」メッセージについて

何よりノイズを飛び越えて驚いたのは、『ゴジラ-1.0』が「ゴジラ」および「ゴジラ撃退作戦」に何を象徴させたかという話ですね。まず冒頭、大戸島の整備兵の橘が小ゴジラを見た時に「米軍の新兵器か」と言ったり、機雷撤去船の乗務員・水島がやはりゴジラの襲撃跡を見て「ソ連の兵器か」と言ったり、ゴジラに分かりやすく、アメリカ・ソ連といった大国が象徴されています。ゴジラの熱戦による銀座壊滅は、1945年1月27日、銀座が標的となったアメリカ軍による空襲に置き換えても良いでしょう。熱線の後にできる雲は明らかにキノコ雲を強烈に連想させます。

何より驚くのは、ラストの元海軍による、そんな旧敵国に象徴されるゴジラの撃退作戦「海神作戦」が作品内で何に象徴されるかというと「太平洋戦争」そのものなんですよ。敗戦した国の元軍人の残党が集まって、「旧敵国=ゴジラ」を倒すことで二回目の「太平洋戦争=海神作戦」は勝とうとする。当然、この作戦は元海軍によるものなので女性はこの作戦に参加できず男性のケアをするしかない。おまけに作戦を成功させることで男性性を取り戻そうとすると、主人公・敷島は精神的に去勢された男性。かつて戦闘に参加できず、小ゴジラを撃退できず味方に死傷者を出した事をトラウマに抱えている人物ですが、その人物が今度の「太平洋戦争=海神作戦」に勝って、トラウマを回復、男性性を取り戻す物語を描こうとするんですね。不思議な映画だなぁとただ驚くばかりでした。

「旧日本軍の人命を軽視した戦争のやり方」は否定しながら、戦争は生きて勝てば男性性を取り戻すから良いものだと、戦争を反対しながら微妙に肯定している、つまりどっちつかずの奇妙な折衷を取っているというのが本作『ゴジラ-1.0』でしたね。これは実は「初代ゴジラ」の段階から批判があった点で、特に僕はラストの展開を見ている時、ずっと頭に思い浮かんでいたのは評論家・佐藤健志さんの『ゴジラ』評で。なぜ日本人は「ゴジラ」の物語を繰り返すのか?という問いについて、佐藤さんは「日本は本土決戦に至らずに、途中で終戦したから太平洋戦争を敗戦と受け止められず、「ゴジラ」というフィクションで“幻の本土決戦”を再現している」と評していて。相当、今、記憶の中で意訳しちゃいましたが、まさしくこの佐藤さんのゴジラ評を、そのまま物語に入れ込んでしまったのが本作『ゴジラ-1.0』だと思いました。

「ゴジラ」という虚構で“幻の本土決戦”を再現して、今度の戦争には勝って男性性を取り戻してヤッタゼ!とこの物語に快感を得る気持ちは分からなくもないですが、いかんせん『シン・ゴジラ』と異なって、時代設定も現実の太平洋戦争そのものと近い分、非常にノイズで僕は全くノることはできなかったです。後、全編、スピルバーグ、ハリウッド大作からのコピーが多いんですが、最後の沢山の船が助けに来る展開もそのまま『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のラストそのままで、これも合わせて驚いてしまいました。

「特攻」の扱い

加えて敷島の物語は個人的に不完全燃焼でした。特攻隊員ながら戦闘に参加しなかった、色々な人に「臆病者」と言われる敷島は山崎監督の代表作『永遠の0』の岡田准一さん演じたパイロットの繰り返しです。本作『ゴジラ-1.0』の大きなテーマは「生きろ」旧日本軍の人命軽視を批判し、人命を重視しろというもので、これは山崎監督の前々作『アルキメデスの大戦』と全く同じです。

「初代ゴジラ」の本多猪四郎監督・円谷英二特撮監督・田中友幸プロデューサー、このトリオが初めて組んだ『ゴジラ』の監督前作にあたる『さらばラバウル』という作品があります。この作品も戦闘機パイロットを主役とした映画なんですが、この『さらばラバウル』という映画のテーマも「人命重視」。驚くのは捕虜になった米軍のパイロットが主人公に向かって「なぜ日本人は戦闘機にパラシュートを入れないのか」と言うシーンがあるんですね。まさか作り手の皆様、絶対に意識していないと思いますが、本作の敷島の物語のラストが、この本多猪四郎監督が「初代ゴジラ」の前に撮った『さらばラバウル』から引用したとか言われたら驚きます。

奇妙な偶然で「初代ゴジラ」から本作に繋がる敷島の物語なんですが、これも奇妙な演出をしていて、彼が特攻で死ぬより(擬似的な)家族・娘のために生きると決断する瞬間こそにドラマの感情のピークを持っていかないと本来はいけないはずなのに、非常に不誠実な事にこの『ゴジラ-1.0』は「実はパラシュートを入れていましたー」「実は生きていましたー」という観客へのサプライズのために、それを逃すんですね。「死んではダメ」と典子に言われ、生きることが何より重要だという映画なのに、少なくとも観客は「主人公が死ぬ覚悟をした」と“勘違いしている”ゴジラ特攻シーンを感情のピーク、物語のピークに持ってきているという、これも奇妙でしたね。

「死より生を選ぶ」という意味では敷島より橘の物語の方が完成度が高いという、「特攻」を物語のサプライズのために消費するって凄い不誠実だなと、これも結構、驚いてしまいましたね。まぁ過去作『永遠の0』へのカウンター、特攻を美学にしないぞという作り手の意志は良いなと思いましたが、素直に典子の死をきっかけに、典子の代わりに生きてやろうと、橘に言われるのではなく敷島が、自分から「特攻」を拒否して、自分の強い思いで「生」を選ぶ物語にした方がシンプルでアツかったと思うんですが、そしてその主人公の「生」を選択する瞬間に最もドラマを盛り上げるべきだと思いますが、そんなにサプライズが重要なんですかね?僕には難しい映画でした。

初代との違い

上手く「初代ゴジラ」から要素を持ってきている所もある反面、中途半端に「初代ゴジラ」をベースにしたせいで、逆に無かったものが際立ってしまっていたというのも、本作の大きな特徴ですね。『ゴジラ-1.0』の「-1.0」は「加害者性」もしくは「怪獣に共鳴する登場人物」ですよ。「初代ゴジラ」ひいては「ゴジラ」シリーズで重要な人物は、僕は「怪獣に共鳴するキャラ」であり、人間がゴジラを作った、もしくは人間がゴジラになるかもしれないという加害者性の意識だと思うんですね。これを逆に描かないと「ゴジラ」を扱う意味が無いとさえ僕は思うんですよ。

「初代ゴジラ」は人間の核実験がゴジラという怪獣を生んだという加害者性に加えて、そのゴジラに共鳴する、まさしく怪獣ファンを象徴するキャラクターが登場します。古生物学者の山根博士であり、海底にいるゴジラと同じく地下の実験室に籠って、兵器によって傷を負った、ゴジラ級の破壊兵器を持っている芹澤博士ですね。「平成VSシリーズ」になるとゴジラとテレパシーをする女性とか、『シン・ゴジラ』だったら牧元教授とか、ハリウッド版だったらMONARCHという巨大生物研究機関とか、全作品とは言いませんが「怪獣に共鳴する人物」が多くの作品に登場して、怪獣好きの子供はそこに視点を代入する訳ですが、今回『ゴジラ-1.0』は1人もいないと。

「初代ゴジラ」の芹澤博士はラストで自ら命を絶ってゴジラを殺しますが、その「自ら命を絶って」という部分だけが今回の主人公・敷島に吸収されているという、中途半端に「初代ゴジラ」をベースにしている分、やはりこの大きな「-1.0」が強く浮き上がっていました。加えて「ゴジラ」を題材にする以上、絶対に「ゴジラは人間が作ったもの」という視点は必要だと僕は思うんですね。それが本作の人間側の「加害者性」の欠如で、核実験の後、燃やされているゴジラが一瞬映るだけで、誰一人とも「ゴジラが核実験の被害を受けた」ということを言及しない。

折角、今回素晴らしいデザインで、核実験によってゴジラ、体がケロイドになっているという設定なのに、誰一人と「怪獣に共鳴する人物」共鳴まではいかなくとも「同情する人物」がいないと、本作の登場人物は人間が生み出した怪獣に襲われている感覚が無い、一方的な被害者だと思い込んでいるようで、これだと「ゴジラ」じゃなくても良くなってしまう、ド派手な海上戦がやりたいならメガロドンでも良い訳ですから。「怪獣に共鳴する人物」が一人もいないという感じ、「ゴジラ」という人気IPを感動ヒューマンドラマのために消費している感覚が、何だかエメリッヒ版『GODZILLA』っぽいという最初の結論に戻ります。こういった点も全て「初代ゴジラ」を中途半端にベースにしたせいで、折角、「初代ゴジラ」にあった「ゴジラ」を中心とした複雑で立体的な人間関係を逃してしまっている、とても勿体無いなと思って観ていました。少なくとも後半は孤独な気持ちで、ずっと映画を観ていました。

さいごに

という事で僕の中の『ゴジラ-1.0』も丁度「-1.0」になってしまったんですが、この「-1.0」というのは「初代ゴジラ」という偉大な誕生作に挑んだ、挑戦した結果、やっぱりVFXの出来、海上戦と銀座襲撃シークエンスは素晴らしい出来。今後も見返すと思います。典子の首元の痣は見間違いでなければ動いていましたよね?被曝、ただの痣ではなさそうでしたね。浜辺美波さんがビオランテになるのか!?というのは冗談で、今後もおそらく続くと思われる山崎貴監督「ゴジラ」令和ゴジラシリーズの誕生か。あと、最後の白目のゴジラとか、海底で動くゴジラの臓器とか、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』を思い出しました。本作がヒットして、今後もシリーズ続くと嬉しいなと思っています。期待を遥かに超える見事な一本でございました。

【作品情報】
『ゴジラ-1.0』
劇場公開日:2023年11月3日(金・祝)
©︎2023 TOHO CO.,LTD.


茶一郎
最新映画を中心に映画の感想・解説動画をYouTubeに投稿している映画レビュアー

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