中田ヒデと再会したトッティ、伝説のユヴェントス戦ゴールを賞賛「あの日は中田がサッカー史に名を刻んだ、中田のための夜だった」

先日、来日した元イタリア代表フランチェスコ・トッティ。

2000-01シーズンにローマでともにスクデット(セリエA優勝)を果たした中田英寿さんと22年ぶりの再会を果たした。

その2人の対談がDAZNで配信されているので、イタリア語での会話を一部抜粋してみる。

トッティ:会えて嬉しいよ。日本に行くなら、中田がいれば会いたいと思っていた。彼とはずっといい関係だったし、選手である前に気遣いのできる礼儀正しい人間だ。中田は日本人で文化もメンタリティも異なる。初めてトリゴリア(ローマの練習場)に来た時から常に協力的で礼儀正しい男だった。そういう人物は心に残る。だから、日本に行くなら会いたいと思っていたんだ。

ヒデ:もう覚えてないでしょ(笑)

トッティ:正直、よく覚えていないけれど、控えめでシャイな印象だったよ。ローマに来た時はすでにイタリア語で会話していたな。

ヒデ:フランチェスコとは同じ年だと知っていたし、ローマの象徴みたいなASローマの長だったね。選手としては後にも先にもトッティほどボールを蹴るのがうまい選手を見たことがなかった。衝撃的だったね。いつもピッチの中央にいて、あまり走っていなかったかな(笑)

トッティ:問題なのは一度も一緒に試合に出なかったことだね。役割がほぼ同じだったから、(ファビオ・カペッロ)監督は同時起用が難しかった。

ヒデ:当時のローマの選手はめちゃくちゃ強かった。

トッティ:めちゃくちゃ強かった。個人としてもチームとしても。

ヒデ:試合よりも練習のほうが大変だったんだから(笑)

トッティ:そうだったな(笑)日曜の試合よりも練習試合(紅白戦)のほうが難しかった。

ヒデ:MFは色んな選手がいたよね。エメルソン、ディフランチェスコ、トンマージ、ザネッティ。

トッティ:あの年は最初は2トップだったけれど、1トップに変更された。デルベッキオが左に流れてプレーしていたから、バティストゥータが1トップでトップ下がサポートする布陣だった。2トップとトップ下だったら、(2人で)もう少し一緒に試合に出てたかもしれないな。モンテッラも全然試合に出られなかった。

ヒデ:とにかく、ものすごく強かった。

トッティ:あれだけ凄い選手ばかりだと誰を試合に出すか決める監督が大変だよ。

ヒデ:今のマンチェスター・シティみたいなものだね。

トッティ

(あのユヴェントス戦では)彼が入った途端に試合の流れが変わった。

1点目を決め、2点目も彼が決めたみたいなものだ。ピッチに入れば、毎回必ず何かをやってくれたね。

俺が出場停止で出られない時もゴールやアシストなど何かをしてくれた。

この年にスクデットをとれたのは、試合に出られなくても全員が重要な選手だったからなんだ。誰もがいつ呼ばれても試合に出られる状態だった。

開始10分で2-0にされたから、あの時は自分たちのことで頭が一杯だった。

ゴールを決めたのは確かデルピエロとジダン。俺たちは全く歯が立たなかった。

残り6試合でユーヴェに追われる立場だった。

彼の前だから言うのではなくて、中田が入って15分で試合の流れが変わったんだ。

何分に入ったのか覚えていないけれど、残り15分くらいだったかな。

あの日は中田がサッカー史にその名を刻んだ。中田のための夜だったね。

監督はゲンを担ぐタイプだったから、翌週は確かホームのアタランタ戦で俺たちはあまりよくなかったから俺が中田と交代になったんだ。

そうしたら、モンテッラが1-0のゴールを決めた。監督はこういうことを気にするんだ。確か前の試合と同じ時間に交代したはずだ。

2001年5月に行われたセリエA第29節ユーヴェ戦。ローマは開始6分で2失点した後、後半15分にトッティに代えてヒデを投入。

すると、ヒデは後半34分に1点目を決め、後半アディショナルタイムにモンテッラの同点弾を演出してみせた(試合は2-2)。

トッティの言葉通り、第30節アタランタ戦でもカペッロ監督は後半14分にヒデと交代させている。

そんなことまでしっかり覚えていたトッティはスクデット獲得の翌年に退団したヒデの心中を思い遣る発言もしていた。さらに、「(ローマの街の人間は)みんな君のことをおぼえているよ」とも話していた。

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そんなトッティはヒデからローマからの退団を考えたことはあったかと聞かれると、2004年にレアル・マドリー移籍を迷ったことを明かしていた。

さらに、トッティは今の走るサッカーだったら自分は無理だったとしつつ、今は試合数が多すぎる点も指摘していた。

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