児童養護施設で育ち、夢を叶えたサッカー選手。今の子どもたちに伝えたいこと

「夢を追うことを諦めなければ、本気になって取り組めば、夢は叶う。周りも力になってくれる」…特殊な環境下から夢を追い、そして叶えた一人の青年がいます。

2017年から今シーズンまで『FC.ISE-SHIMA』の地域リーガーとして活躍した、飯嶋隼人さんです。

飯嶋さんは、0歳から18歳まで、児童養護施設で育ちました。

児童養護施設は、様々な事情により、親と離れて暮らす子どもたちが保護され、生活する場所です。

ただでさえ厳しいサッカー選手への道…。彼は、いかにしてサッカー選手になることができたのでしょうか?

どのようなことが支えになって、夢を叶えることができたのでしょうか?

飯嶋さんのこれまでの軌跡と、子どもたちに向けて行なっている活動について、お話を伺いました。

飯嶋隼人さん

児童養護施設でのサッカーとの出会い

ー飯嶋さんとサッカーとの出会いについて教えてください。

飯嶋「僕の育った児童養護施設では、施設内の取り組みとしてサッカーチームがあり、グラウンドもあったので、よくサッカーをして遊んでいました。

「サッカー選手になりたい」と思うようになったのは、小学校6年生の時です。新しく入ってきた職員の存在が大きかったんです。サッカーにすごく熱意を持っている人で、いろんなことを教えてくれました。

その職員の人と一緒にサッカーの練習をしたり、体幹トレーニングをしたり、プレー動画見たり…。サッカーにぐいぐいのめり込みました。

「もっとサッカー上手くなりたい」と強く思うようになりました。」

高校卒業後は「就職」という選択肢しかなかった

ー中学、高校ではどのように過ごされていましたか?

飯嶋「中学校は、同じ施設の子たちも通う近くの中学校に進学しました。高校も、施設から自転車で通える範囲の高校です。中学でも高校でも、サッカー部に所属していました。特に強豪校というわけでなく、地区予選敗退ばかりです。

高校卒業後の進路について考えなければならなくなったとき、サッカー部の監督から、「大学に進学してサッカーを続けないか?」という声がけをしていただきました。

でも、児童養護施設は原則として18歳で退所しなければならず、僕の場合、退所後は一人で暮らしていくことになります。

生活の面を考えたら、仕送りなどもないですし、大学進学はどう考えても無理があるので、就職することになりました。」

夢を叶えるためにセレクションへ

ー就職後、どのようにしてサッカー選手を目指したのでしょう?サッカー選手になるまでの経緯について教えてください。

飯嶋「就職後3年間は働いていましたが、どうしてもサッカー選手になりたいという思いを捨てられませんでした。

『親のせいでサッカーに挑戦できなかった』と思うのは嫌だったので、一人暮らしをしながら必死で働き、貯金をして、意を決してサッカーチームのセレクションを受けに行くことにしました。

『FC.ISE-SHIMA』は、僕の憧れだったJリーガーたちがコーチやスタッフとして在籍しているチームでした。

「サッカーをするならここでしたい」と思い、当時住んでいた静岡県から『FC.ISE-SHIMA』がある三重県まで行きました。

僕は、サッカーでの経歴は何もありません。無謀な挑戦でしたが、セレクションに受かることができて、入団が決まりました。」

FC.ISE-SHIMA

周囲の大人たちの厳しい反応…支えになったものは?

ーサッカー選手に挑戦することに対して、周囲の反応はどんなものだったのでしょう?また、支えになった存在などはありますか?

飯嶋「僕は小学校1年生の頃から高校3年生まで、施設で暮らす傍ら、月に1回と夏・冬休みに一週間ほど、里親家庭でお世話になっていました。

里親さんは、いつも自分の子どものように僕に接してくれていました。その里親さんに、「今の会社を辞めてサッカー選手に挑戦する」と言ったら、すごく怒られました。

せっかく就職できて仕事も順調なのに、生活をしていくことが何より大切なのに…、って。

施設の職員さんにも反対されました。「仕事あってのサッカーだ」と言われました。施設を退所するときに職員さんに手紙をもらったんですが、そこにも『生活が第一』と書かれていましたし。

みなさん、僕のことを本当に真剣に、大切に考えてくれていたんだと思います。

それでも、僕はサッカーが大好きで、サッカー選手として活動がしたかった。サッカーへの思いが僕を支えてくれていました。」

親への複雑な思いを乗り越え…

ー親御さんとの関係性は、今現在、どういう状況なのでしょうか?飯嶋さんにとって、親御さんの存在はどんな影響を与えたのでしょうか。

飯嶋「親との関係のことでは、正直今までたくさん辛い思いをしましたし、悩みました。

泣きながら児童養護施設の職員さんに話を聞いてもらったことも何度もありました。

監督やコーチ、チームメイト、荒木GKコーチ(三重GK Rising Academy)に話を聞いてもらったこともあります。

周りの人たちには、本当に助けられました。

いろんな思いをする中で、『親の人生は親の人生、自分の人生は自分の人生』と考えるようになりました。」

実際にサッカー選手になるという夢を叶えて

ー実際にサッカー選手になるという夢を叶えてからの生活はどうでしたか?

飯嶋「入団してからは、スポンサー企業に勤務しながら、サッカーの練習と試合に励んでいました。

生活の面で言うと、以前よりやはり厳しくなりました。練習や試合があるので、働く時間が短く、怪我をすればしばらく働けませんから。

でも、後悔をしたことは一度もなかったです。

大好きなサッカーができて、仲間がいて、サポーターに応援してもらえて、一緒に勝利を喜ぶことができて。

すごく幸せでした。

サッカー選手になってから、僕は怪我で手術3回経験して、それ以外にも怪我が本当に多かったんですが、仲間やサポーターの応援と、『支えてくれるみんなとまた勝利を喜び合いたい』という思いでこれまでがんばり続けることができました。

今後は、現役時代から取り組んでいることでもありますが、同じような環境で育つ子どもたちに自分の経験を伝え、サッカーを通して交流することで、力になっていければと思い、活動しています。

先日、久しぶりに里親さんに会ってそのことを報告したら、とても喜んでくれていました。」

自分の『好き』を大きな支えに

ー子どもたちに向けて、どのようなメッセージを伝えたいですか?

飯嶋「夢や、心から『好き』と思うものがあるなら、それは大切にしてほしいです。きっと人生の大きな支えになるはずなので。

僕と同じような環境で育つ子どもたちは、親のことですごく苦しむことがあると思います。挫折を何度も味わうと思います。でも、一人で抱え込まないようにしてほしいです。

話を聞いてくれる人や、助けてくれる人はきっといます。

本気になって取り組めば、応援してくれる人が現れます。

道を逸れずに、踏み外すことなく、がんばってほしいです。」

自分だからこそ伝えられることがある

ーこれからの飯嶋さんの活動ついて詳しく教えてください。

飯嶋「特に、同じような環境で育つ子どもたちには、“自分だからこそ伝えられることがある”と思っています。

去年・一昨年と、僕がお世話になっていた児童養護施設を訪問して子どもたちと触れ合い、スポンサー企業が提供してくれたお菓子を配ることができました。

今度、名古屋の児童養護施設の職員さんからお声がけをいただきまして、訪問させていただく予定です。

来年2月からは、故郷の静岡県に戻って子どもたちのサッカーのコーチをしますが、全国の児童養護施設を訪問して、子どもたちと交流することは続けていこうと思っています。」

飯嶋さんのお話を聞き、人生は、『どんな環境で生まれるか』よりも『誰と出会い、どんな気持ちを持って生きるか』が大切なのではと感じました。

飯嶋さんのお話が、たくさんの子どもたちに届くことを願ってやみません。

【取材協力】飯嶋隼人(いいじま はやと)

1996年生まれ。静岡県出身。三重県在中。2017年社会人サッカチームFC.ISE-SHIMA入団。2023年引退。自身の生い立ちや経験、乗り越えてきたことなどをYoutube「はやとチャンネル」やSNS等で発信している。

(ハピママ*/ 黄本 恵子)

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