大河『家康』征夷大将軍となり幕府を開いた深い理由 豊臣重臣の枠を抜け出したかった 識者語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第44話は「徳川幕府誕生」。関ヶ原の合戦(1600年)に勝利した徳川家康(松本潤)が、その3年後の慶長8年(1603)に朝廷から征夷大将軍に任命される様が描かれました。関ヶ原合戦に勝利し、事実上の「天下人」となった家康は、なぜ将軍に就任し、江戸に幕府を開く必要があったのでしょうか。その答えを探る前に、家康の将軍就任の様子を見てみましょう。

慶長8年2月12日、上洛していた家康は、伏見城に勅使(天皇の使者)を迎えます。そして、将軍宣下を受けるのです。この時、家康は征夷大将軍だけでなく、源氏長者・淳和、奨学両院別当・右大臣にも任命されています。3月21日には、家康は二条城に入り、同月25日には参内。後陽成天皇に拝謁します。将軍宣下の御礼を言上するため、御所に参内したのです。天皇から「三献の盃」を受けた家康。参内に際しては、天皇や女院に数々の礼物を進上しています。

さて、では、家康の将軍就任にはどのような意義があったのでしょうか。狙いはどこにあったのでしょうか。家康の将軍就任以前、諸大名はまず、大坂城の豊臣秀頼に年賀の礼を行い、その後に伏見城の家康のもとに行っていました。また、家康自身も、年賀の礼のため、大坂に下向すること度々でした。これは、豊臣重臣・家康としては、当然と言えば当然のこと。ところが、将軍就任以後、家康は年賀のために大坂に行くことはありませんでした。諸大名が大坂の秀頼のもとに年賀に行くことも、次第に減っていきます。将軍就任前、家康は依然として豊臣政権の重臣でした。

しかし、将軍就任により、豊臣重臣の枠を抜け出し、新たな支配体制を構築する機会を得たのです。徳川家による新たな支配体制の構築が将軍就任により可能となったのでした。慶長8年(1603)7月、家康の孫・千姫(徳川秀忠と江の間に生まれた女子、演=原菜乃華)7歳が豊臣秀頼(11歳)のもとに嫁ぎます。これは家康が秀吉との約束を果たしたものと言えるでしょう。

秀頼の関白就任の噂が当時、流れていましたが、家康としては、とりあえずは、徳川家と豊臣家が協調し、個別の支配体制を運営できればと考えていたと思われます。家康の将軍就任から2年後(1605年)の4月、家康は息子の秀忠に将軍職を譲りました。家康は将軍職の世襲化を天下に明示したのです。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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