顔見ぬまま戦地に散った父悼む 80歳「最後」の慰霊旅

ムシュ島を臨む祭壇の前で追悼文を読む屋敷さん=10月28日、パプアニューギニア・ウェワク市(屋敷さん提供)

  ●白山・屋敷さん、ニューギニア訪問/「おかげで元気に暮らせた」

 一度も顔を合わせることなく戦地に散った父を慰霊しようと、白山市徳丸町の屋敷武彦さん(80)が10月、南太平洋パプアニューギニアを訪れた。15年ぶり2度目の訪問で、前回同行した兄は他界、年齢を考慮すると「最後だと思って手を合わせた」という屋敷さん。「これまで元気に暮らすことができたのは父のおかげ」と感謝と鎮魂の祈りをささげた。

 屋敷さんの父・孝一さん=享年(41)=は能美市出身で、太平洋戦争開戦時は滋賀県警に勤務。面倒見がよく地域の住民に愛される「駐在さん」だったという。

 志願兵として戦地に赴いた孝一さん。出征時、屋敷さんはまだ母親のおなかの中にいた。パラオやニューギニアなどを転戦した孝一さんは、終戦時にはマラリアと栄養失調で帰国する船に乗れず、1946年1月、ムシュ島で亡くなった。遺骨は戻ってこなかった。

 屋敷さんは今回、10月25日~11月1日の日程で実施された日本遺族会の東部ニューギニア慰霊友好親善訪問団に参加。首都のポートモレスビーや、父が眠るムシュ島に近いウェワク市などを巡った。ムシュ島が見える岬に祭壇を設け、追悼文を読み上げた。

  ●兄や姉亡くなる

 2008年の訪問に一緒に参加した屋敷さんの兄は2015年に78歳で亡くなった。父に届いてほしいと読んだ文章には、その兄や亡き姉のこと、孝一さんの孫に当たる子どもの近況など盛り込んだ。「父は責任感が強かったと聞いているから、日本に残した家族を気にしていると思って」と屋敷さんは話す。

 最後の慰霊の旅を終え「自ら大変な戦争に行った父は誇りやけど、やっぱり帰ってきてほしかったね」と遺影を見ながら語る。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘など世界では戦渦に巻き込まれる人は絶えない。屋敷さんは「父を知らない私のような子どもを増やしてはならない」と訴えている。

屋敷孝一さん(屋敷さん提供)

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