最愛の娘に火をつけて… 涙ながらに心で詫びた「あまりにむごい」娘2人を奪われた母親がつづった慟哭

1945年8月6日午前8時15分。初めて人の頭の上に、原子爆弾が落とされました。あれから78年が経った2023年、2人の娘を奪われた母親の手記が見つかりました。記されていたのは、娘を失った悲しみと、平和を願う祈りでした。

核兵器の使用や保有などを全面的に禁止する核兵器禁止条約の第2回締約国会議が27日から米・ニューヨークの国連本部で開かれます。きのこ雲の下で何が起きたのか。RCCがこれまでに取材してきた被爆者の訴えを改めて伝えます。

「昭和20年8月6日‼ あゝこの日こそ私にとっては、永久に忘れることの出来ない痛ましい悲惨な想い出のつきぬ日である」

「原爆の記」と題した手記は、葭本(よしもと)しげ子さんが、書き残したものです。しげ子さんには、3人の子どもがいました。長男の孝彦さん、長女の恒子さん、次女の純子さん。夫は病気で他界したため、女手一つで3人の子どもを育てていました。

1945年当時、長男の孝彦さんは出征、2人の娘は広島市立第一高等女学校(市女)に通っていました。

8月6日、当時16歳だった長女の恒子さんは、動員先の軍需工場が休みだったため、友だちと遊びに出かけていました。14歳だった次女の純子さんは市女の2年生で、空襲に備えて防火帯を作る「建物疎開」という作業に動員され、広島市中心部へ向かっていました。そして午前8時15分…。

しげ子さんの手記より 「台所の窓際で外を眺めていると、ふと赤い落下傘を見たと思ったとたんガラガラドタンバタンと大音響と共に硝子窓は吹き飛び天井は落ち床板もほとんど落ちてしまった。見ると西北の方は真っ赤に燃え続けている。ああ、どうしよう2人の子供はどうしているだろうと思えば、居ても立ってもいられぬ思いどころか気も転倒せんばかりである。正午過ぎ市女の一、二年生は全部似島へ避難させたとの知らせを受けた。姉の方はどうしたろうと案じているところへお友達の1人が『みんな己斐駅でまっていたが葭本さん一人が来られなかったので心配して来てみた』とのこと。私はそれを聞くなり気も狂わんばかりになった」

次女の純子さんは、いまの平和公園(広島・中区)の南側あたりで、建物疎開の作業をしていました。爆心地からわずか500メートル。作業に当たっていた市女の1・2年生は541人。全員が死亡しました。純子さんの遺体が、見つかることはありませんでした。

長女の恒子さんは、友だちとの待ち合わせ場所に向かう、電車の中で被爆しました。気絶していたところを助けられ、翌7日、救護所となっていた小学校に運ばれました。この小学校の近くに住む友人が、恒子さんを見つけて、家で看病していました。

しげ子さんの手記より 「七日も長女の生死が判明しないので、当てもなく探し歩いたがだめだった。出かけようとしているところへ、長女のお友達が、長女がお世話になっていることを知らせてくださった。私は天にものぼる気持ちで、午後4時頃お友達と一緒にお宅へ急いだ。長女は皆様のお陰で、どうやら生きていてくれた。死んだと思っていた私を見て、涙をボロボロこぼして抱き合って泣いた。やけども大したこともなく、熱も下がり食欲も出たら元気になるだろうとホッとした。『妹はどうした』と聞いたので『どうもだめらしい』というと『あんなにかしこい子だったのに私が変わってやればよかった』と泣きじゃくった」

恒子さんに、大きなけがはありませんでした。しかし放射線の影響か、高熱や嘔吐、下痢に苦しめられていました。何か少しでも食べさせようと、重湯を少しずつスプーンで口に注いでいきましたが、飲み込むことはできませんでした。血を吐くこともあったといいます。恒子さんは、うわごとを言うようになり、「家に帰りたい」と繰り返していたといいます。

しげ子さんは、借りてきた大八車に恒子さんを乗せ、自宅へ連れて帰ることにしました。「苦しい、苦しい」という娘を、「もう少しだから我慢してね」となだめながら家路を急ぎました。しげ子さんは数日間、ほとんど寝ていなかったため、倒れそうになりながら、疲れた足を引きずり自宅を目指しました。

しげ子さんの手記より 「ようやく空家同然の目茶苦茶に壊れた我が家にたどりついた。ご近所の方達に手伝ってもらって落ち込んだ座敷の片隅に寝かせた。とても苦しそうで見ていられなかった。大八車を返さなくてはならないので『お母さん、お母さん』という娘を一人残して、隣組の方に頼みに行って帰るとすぐ『お母さん』と云ったきり息を引き取ってしまった。丁度六日の原爆にあった同時刻であった。私は余りのショックでしばらくは涙も出なかった。あゝ2人の子供は遂に死んでしまった」

恒子さんは、原爆投下から5日後、息を引き取りました。まだ16歳でした。

しげ子さんの手記より 「十一日午前八時すぎ死亡したので当時専売局に暁部隊があったので、隣組の青年達が担架に乗せて連れて行ってくださった。兵隊さんが二、三人、大きな丸太棒をつみ重ねた上に死体を置き、私に『火をつけよ』と云われた。一瞬私は茫然自失の有様になった。皆さんは待っていらっしゃるし、兵隊さんにはせかされ、せっぱつまって涙ながら心で詫びながら火をつけた。私はとてもじっとしていることは出来なかった。合わす手もガタガタふるえ、涙は滂沱(ぼうだ)と流れた。サヨーナラ、サヨーナラ。どうぞ安らかに眠ってください。余りにもむごたらしくて、ふり向く気にはどうしてもなれなかった」

2人の娘を失い、しげ子さんは失意の底にいました。それでも、出征した長男の孝彦さんが、元気に生きてくれていることが分かりました。「何十日ぶりかに生き返った気持ちになった」。しげ子さんは、その時の心情をこう綴っています。そして月日は流れ、孫が生まれました。しげ子さんの手記は、こう締めくくられています。

しげ子さんの手記より 「かくて星うつり年かわりて長男もやっと結婚した。やがて次女によく似た赤ちゃんが生まれた。名付けて明子‼ 私はこの孫が生まれた日から1日もかかさず神仏に元気でかしこく育ちますよう祈らぬ日とてはない。戦争なんて、もうもうこりごりだ。何時までも何時までも平和でありますよう祈りつつ鉛筆をおきます」

この手記は1968年2月に書かれました。当時小学校2年生だった孫の明子さんに、「家族の思い」として、したためられました。孫のためだけに書き残した手記でした。しげ子さんは、この手記を書いた6年後に亡くなりました。「いつまでも、いつもでも平和でありますように」。手記に込められている思いです。

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