「姉を見殺しに…」家屋の下敷きになった姉 「助けるから待ってて」しかし 火の手が迫り…誰にも言えず 悔い続けた弟

核兵器の使用や保有などを全面的に禁止する核兵器禁止条約の第2回締約国会議が、米・ニューヨークの国連本部で開かれています。きのこ雲の下で何が起きたのか。RCCがこれまでに取材してきた被爆者の声を改めて伝えます。

「わたしは姉を見殺しにした…」。生涯、悔い続けた男性がいます。「待ってて、今、助けてあげるから」と姉に言ったはずだったのに…。自分は、自分が助かりたいために母を背負って逃げたのか。被爆から50年が経った1995年のある日、その男性は、静かに証言を始めました。

原爆が投下されて2か月後に撮影された映像に、広島逓信病院でガラスが突き刺さった目の治療を受けている女性の映像が写っています。幟町(現・広島市中区)の自宅で被爆した松下ひささんです。

ひささんの次男・高倉光男さんは、家族の被爆体験を50年間、誰にも語りませんでした。家族にさえも。

1945年8月6日。原爆が投下されたとき、幟町の自宅には光男さんと母のひささん、そして2人の姉がいました。ひささんはガラスを浴びて大けがをし、次女の和子さんは建物の下敷きになりました。

高倉光男さんは原爆投下の衝撃を「一瞬、体じゅうがムチ打たれたようになった」と表現しました。母のひささんは「あんたたちは大丈夫か? 和子はどうした?」と、子どもたちを心配していたといいます。

1人、木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなりました。中学生の光男さんは姉を助けに向かいました。すると、「ここよ!お母さん助けて!」と姉の声が聞こえました。しかし、2階建ての家がつぶれ、大きな梁が落ちていてました。

「姉を見殺しにしたことは事実」 その弟は…

木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなりました。当時中学生だった、弟の光男さんは助けに向かいましたが…。

高倉光男さん
「中学生が動かせるはずがありません。微動だにしません。それでも、泣きながら『待ってて、今、助けてあげるから』と。ふと気がついたら、まわりに火の手が上がっていた」

このままではみんな焼け死んでしまう。光男さんは、姉の和子さんを残し、重症の母・ひささんを背負って必死で逃げました。

高倉光男さん
「お母さんを助けるために姉を見殺しにしたことは、母には死ぬまで言いませんでした」

母のひささんは、娘・和子さんの最期の様子を知らぬまま、1982年に亡くなりました。

高倉光男さん
「わからないんです。姉さんを助けたい。おふくろを助けるのが大事なのか、自分が助かりたいためにおふくろを背負って姉を見殺しにして逃げたのか。わたしは生きて、『お母さん、助けて』という姉を見殺しにしたことは事実です。だから、しゃべりたくないんです。だから、原子爆弾のことを思い出したくないの。誰にも言いたくないの。言うと悲しくなって、涙が出て。今でも…言えません。今後、原爆でこういうふうなことはあったら世界中、同じようなことがどこでも起こるんじゃないかと思います」

光男さんは「原爆だけがいけないのではない」と力を込めます。

高倉光男さん
「原爆だけがいけないんじゃないと思います。戦争は、なんでもいけません。武器を使う戦争は。小銃であれ、ピストルであれ。原爆がいかんで、大砲がいいなんて、そんなアホなことありますかいな。とにかく武器はいけませんよ。戦争はいかん」

被爆から50年。自分の家族にさえ被爆体験を語らなかった高倉光男さんは、このインタビューの翌年、亡くなりました。

世界にはまだ約1万2000発の核兵器が存在しています。核兵器の使用、保有、威嚇も禁止する核兵器禁止条約。第2回締約国会議が27日から、アメリカの国連本部で開かれています。しかし、核保有国だけでなく、唯一の戦争被爆国の日本は、参加していません。世界情勢が混沌とする中、いまは亡き被爆者の声が鳴らす警鐘を、受け止めなければいけません。

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