「すごく抵抗があった」…元日本代表MF細貝萌が“守備的”コンバートを受け入れるまで

地元で天才や神童と言われたような選手たちが集い、さらに厳選された選手だけがプロのピッチに立っている。

そんな厳しい世界の中でも“花形”と呼ばれるのがゴールを決めるストライカーである。

プロ野球も今でこそ分業が進んでいるが、昔は最も才能のある者が「エースで4番」を務め、その争いに敗れたものが野手になっていくという時代があった。

サッカー選手も子供の頃は基本的に攻撃、とりわけFWだったりするものだが、年を重ねるごとに後ろのポジションへと振り分けられ、プロになってからコンバートされるケースも少なくない。

文字で書くのは容易いが、本人たちには当然葛藤もあるはず。こうしたものを選手はどのように受け止めているのだろうか?

高校時代は攻撃的な選手でありながらプロ入り後、“守備のスペシャリスト”になった元日本代表MF細貝萌(現ザスパクサツ群馬)は今年実施したQolyのインタビューでこのように語っている。

――前橋育英高校では10番を付けて攻撃的な選手でした。当時のご自身をどう振り返りますか?

僕は中学校が前橋ジュニアでそこから前橋育英高校に行きましたが、当時は基本的に真ん中で好きにやらせてもらう感じでした。

「チームのため」っていうのはもちろんですけど、「自分が気持ちよくプレーすることがチームにとってプラスになる」ということで、ある程度は監督も自由にさせてくれていました。

守備はそもそも好きじゃなくて、攻撃に専念してというか少しでも前で存在感を出せるようにという感覚でプレーしていましたね。

今とはプレースタイルも全く違うと思いますし、もっと積極的に前でボールを触るような感じのプレーヤーだったなと思います。

――プロ入りをされて守備の比重が増えていきました。どう受け止めていましたか?

最初は「えっ」て思ってました。

当時世代別代表…U-15, 16, 17, 18と毎年呼んでもらってたんですけど、“守備的な選手”として呼ばれたわけじゃありません。

中盤の右をやったり左をやったり…ボランチでの起用もありましたが、どちらかというと“攻撃的なボランチ”として代表にも呼んでもらってたので。ナショナルトレセンとかもそうですけど。

浦和時代の細貝

その世代の日本代表の選手たちと(攻撃的なポジションで)やっていたのにポジションがどんどん下がっていくことに関してはすごく抵抗がありましたね。

でも浦和に加入して、(2005, 2006年と)2年連続で準々決勝、準決勝、決勝と全部出させてもらい、そこで3バックの一角とかを任されました。

決勝の相手はガンバ大阪、清水エスパルス。そういう外国人の(強力な)ストライカーがいるような相手にも3バックの一角として試合に出て勝利を収めたのはすごく自信になりました。

それが守備に入っていくきっかけの一つだったのかなと思いますね。

複雑な想いはあったが、プロという厳しい世界において確かな結果を残していく中で徐々に受け入れていったようだ。

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上記の細貝のインタビュー動画では、「浦和から海外移籍を決断した理由」や「現レアル・マドリーのスペイン代表DFダニエル・カルバハルとの秘話」など興味深い内容になっているぞ。

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