「オープンカーはありふれているから、人力車にしよう」数え97歳のお祝いで地元をパレード 長寿は「中耳炎のおかげかも」

 那覇市安謝の比嘉賀秀(がしゅう)さん(96)がこのほど、数え97歳の「カジマヤー」を迎えた。家族や地域の祝福を受けながら、人力車に乗って自宅周辺をパレードした。(社会部・城間陽介)

 子どもたちから「オープンカーはありふれているから、少し変わったことをしよう」と提案され、人力車を選んだ。パレード後は、安謝公民館で、自治会婦人会や花岡勝子琉球舞踊道場による舞踊で祝福され、自身も子や孫と歌三線を披露した。

 比嘉さんの元気の源は、妻の貴美枝さん(93)との食事作り。料理はお手の物で、魚の煮付けやチャンプルー料理を手早く作る。人との交流も好きで、地域の仲間とカラオケや体操、歌三線、伝統遊戯「チュンジー」を楽しんでいる。

 比嘉さんは1927年、真和志村(当時)安謝生まれ。15歳ごろから、兵庫県にあった旧日本海軍の工場で戦闘機製造に従事。太平洋戦争末期には、軍の入隊志願書を書くよう上官に命じられたが、「お国のために十分働いた」として、会社の同僚とトイレの窓から逃げ出した。

 再び志願書を書くよう求められた時には観念し、第1~3希望全てに「パイロット」と書いた。身体検査で左耳の鼓膜が破れていることが判明し、入隊を逃れた。「幼い頃に安謝の海に潜って中耳炎になっていたことが幸いしたのか」と振り返る。

 戦後は沖縄に戻り、パン製造工場の「コザベーカリー」から仕入れたパンをホテルや食堂に卸して生計を立てた。当時は生活のために米軍基地で働く人も多かったが、比嘉さんは「かつての敵国の下で働きたくなかった」と話す。

 「戦争当時、特攻隊員になりたい気持ちもどこかにあった。だから志願書に『パイロット』と書いた。人間魚雷で戦場に散った同僚も少なくなかった。中耳炎がなければどうなっていたのか」

 戦争を生き延び、息子3人を育て、孫2人、ひ孫1人に恵まれた。毎月、子や孫を自宅に招いて食事会を開く。「これが今一番の楽しみだね」と貴美枝さんと並んで笑顔を見せた。

人力車で集落をパレードする比嘉賀秀さん(左)と妻の貴美枝さん=10月22日、那覇市安謝

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