《池上彰解説》公立校では「ヒジャブ」「ロザリオ」禁止…フランスの徹底した“政教分離”の背景とは

全人口の約4分の1にあたる約1600万人の移民一世と二世ががフランスに暮らす(kipgodi / PIXTA)

今年開催されたラグビーワールドカップ2023、そして来年のオリンピックの開催地「フランス」。華々しいイベントの舞台として注目を集める一方で、北部のアラスでは10月13日、刃物を持った男が高校に侵入し、教師ら4人を死傷させる事件が発生。この事件を受けて、フランス国内のテロ警戒レベルは最高に引き上げられました。

また今年6月末には、警察官による移民の少年射殺事件が発生し、抗議デモが暴徒化。暴動はフランス全土に拡大しました。暴動の背景には移民が抱く経済格差への不満があったとされ、フランス社会の分断を映し出す事態になりました。

労働者の権利が広く認められ、移民を数多く受け入れるなど世界に冠たる「人権国家」として知られるフランス。そのフランスで今何が起きているのか、そもそもフランスはなぜ「人権国家」となったのか、ジャーナリスト・池上彰氏が歴史から解説します。

(最終回/全5回)

※【#4】《池上彰解説》わずか72日間で「世界を変えた」各国の革命家を突き動かしたパリ・コミューンとは?

※この記事は池上彰氏による書籍『歴史で読み解く!世界情勢のきほん』(ポプラ新書)より一部抜粋・構成しています。

フランス革命の成果である「ライシテ(政教分離)」

2004年、フランス社会を揺るがす事件が起きました。公立の小中高校でイスラム教徒の女性がかぶるスカーフ(ヒジャブ)が着用できなくなったのです。脱ぐことを拒否した女性は校内への立ち入りができないという徹底ぶりでした。これは、フランスという国家を特徴づける重要な柱「ライシテ(政教分離)」を象徴する出来事でした。

フランスはカトリック教徒が多いことで知られています。歴史的にカトリック教会が大きな権力を持っていましたが、フランス革命で教会の権威と権益が否定されます。

それでもフランス革命末期の1801年にナポレオンはローマ教皇と「宗教的和約」(コンコルダート)を結び、いったんはカトリックとの提携に戻りました。しかし、社会主義勢力の伸長と共に「政教分離を徹底すべきだ」という政治勢力が大きな影響力を持ち、1905年、政教分離法が成立します。

これは、宗教を否定するものではありません。公的な分野で宗教色を排除することで、私的分野での信教の自由を保障しようというものでした。

いまのフランス国民にとって、ライシテは、カトリックと結びついた王制を倒したフランス革命の成果なのです。

しかし、イスラム世界からの移民が増えると、新たな問題が起きるようになりました。それがスカーフの着用問題です。スカーフはイスラム教のシンボルであり、政教分離であるべき公立の学校では着用が認められないというものでした。

これは一見、イスラム教徒に対する抑圧に見えて、「イスラム差別だ」という声も上がったのですが、実は公立学校にはキリスト教のシンボルのロザリオ(カトリック教徒が祈りのときに用いる数珠状のもの)を身に着けて登校することも認められていないのです。

さらにアフガニスタンからの移民や難民が増えてくると、女性たちが着るブルカが問題になりました。ブルカは、全身を覆うばかりでなく、顔も隠してしまいます。これではテロリストなどが顔を隠して歩き回れるという批判が出て、2010年には通称「ブルカ禁止法」(公共空間で顔を隠すことを禁止する法律)が制定されました。

「移民大国」フランス

このようにイスラム教徒の服装をめぐって議論になる背景には、「移民大国」であることが大きな要因です。

2022年12月、サッカーのワールドカップの準決勝は、フランス対モロッコでした。2対0でフランスが勝ちましたが、パリは多数の警察官が出て厳戒態勢となりました。フランスにはモロッコ出身者が多数住んでいるため、試合の帰趨(きすう)によっては暴動が起きるかもしれないと考えられたからです。

実際にはモロッコ系の人たちも静かに結果を受け入れました。フランスは二重国籍を認めているため、フランスに暮らすモロッコ人たちは、モロッコ国籍であると共にフランス国籍でもあったからです。どちらが勝利しても、「我が国の勝利」なのです。

サッカーのワールドカップのフランス代表チームの顔ぶれを見ると、アフリカ系や中東出身者が目立ちます。フランスが中東やアフリカを植民地支配していた時代に、大勢の移民が入ってきたためです。

そもそもフランスという国は移民によって作られた国という要素もあります。過去にサルコジ大統領はハンガリー系移民の子でしたし、オランド大統領は名前の通りオランダからの移民の子孫でした。

フランスの国立統計経済研究所によれば、いわゆる移民一世(外国で生まれ、出生時にフランス国籍を持っていなかった人)は、2015年時点で750万人。全人口の約11%を占めます。

さらに移民二世(片親もしくは両親が移民)は約850万人。移民一世と合わせると約1600万人で、全人口の約4分の1を占めています。

19世紀半ばから移民を積極的に受け入れた

フランスが移民を積極的に受け入れるようになったのは、19世紀半ばからです。この頃からフランスでは出生率が低下し、労働力不足が顕在化します。さらに第二次世界大戦後の高度経済成長時代を迎えると、安価で大量の労働力が必要とされ、炭鉱や自動車産業の労働者としてスペインやポルトガル、アルジェリアなどから大量の移民を受け入れました。

しかし、1974年になると、オイルショックによる経済の不況が深刻になり、失業率が高まったことで、いったん移民の受け入れを停止しますが、2000年代になると、再び労働者不足が深刻になり、フランス政府は再び移民を積極的に受け入れるようになります。

フランスに定住した移民たちは、家族の呼び寄せが認められたことから、移民が多数入ってくることになりました。

19世紀半ばに入って来た移民の多くは同じヨーロッパ出身者が多かったのですが、20世紀後半になると、旧植民地のモロッコやアルジェリアが上位を占めるようになります。結果、私たちがパリを訪れると、「ここはどこの国」と戸惑うような人種構成になっています。

イスラムめぐり社会的摩擦も

移民の多くはフランス語が十分に話せず、単純労働の低賃金労働に従事することになり、不満が高まります。

一方で、失業者も多く、その人たちの生活保護のために税金が使われることに不満を持つフランス国民もいます。

とりわけ最近の移民にはイスラム教徒が多く、フランス社会の中で摩擦が起きることも多く、「移民排斥」を主張する政治勢力の伸長が目立っています。

この事態の象徴が、2022年4月に実施された大統領選挙です。フランスの大統領選挙は、第一回の投票で過半数を獲得した候補がいない場合は上位二名による決選投票をすることになっています。これは、「大統領が国民の多数の支持を得て当選した」という形を作るためです。

たとえば第一回の投票で最多得票数を得た人の得票率が4割だった場合、「国民の6割の支持を得ていない」ということになります。決選投票をすれば、どちらかの候補の得票率は5割を超えますから、「過半数の国民の支持がある」と言えるというわけです。

このときの決戦投票で、現職のエマニュエル・マクロン大統領が極右の国民連合のマリーヌ・ルペン候補を下し、再選を決めました。得票率はマクロン大統領が58・54%、ルペン候補が41・46%でした。

ルペン候補は移民や難民の受け入れに反対し、「フランスの伝統を守れ」と主張し、過去には泡沫候補扱いされたこともあるのですが、2017年の決選投票にも残り、フランス国内での支持の急増ぶりが大きなニュースになりました。このときの得票率はマクロン66・1%対ルペン33・9%でしたから、差が大きく縮まっています。

人権を大切に考え、多くの移民を受け入れてきたフランスが、いま大きく揺らいでいるのです。

© 弁護士JP株式会社