潤いの感受性 犀星と中野をつなぐもの 宮城学院女子大名誉教授・九里順子 エッセー時の風

 仙台-小松便が運航していた頃は、飛行機が小松空港に到着すると福井行の空港バスを利用していました。高速の入り口を抜けると右手に海が見えてきます。冬などは、グレーから沖の藍色へと移っていくグラデーションに、「ああ、帰ってきた」という思いを深くしたものでした。

 その時、頭に浮かぶのが、丸岡生まれの中野重治(1902~1979)の詩、「しらなみ」(『裸像』1925.1)です。

 (略)

 あゝ 越後のくに親しらず

 市振(いちぶり)の海岸

 ひるがへる白浪のひまに

 旅の心はひえびえとしめりを

 おびて来るのだ

 若き中野の心と響き合う日本海。中野は、汽車の車窓から見える冷たい波に同化し、その「しめり」を心の色として感受しています。北陸で生まれ育った者には、実に共感できるのです。

 北陸の風土を愛した詩人に、加賀金沢生まれの室生犀星がいます。犀星の初期を代表する詩集『抒情小曲集』(1918)に「寺の庭」が収められています。

 つち澄みうるほひ

 石蕗(つは)の花咲き

 あはれ知るわが育ちに

 鐘の鳴る寺の庭

 望まれない子どもであった犀星は、生まれてすぐに赤井ハツという女性に引き取られ、室生真乗(しんじょう)が住職をしていた雨宝院(うほういん)で育ちます。同じような境遇の子ども達を兄姉と呼ぶ生活でしたが、ハツは苛酷(かこく)な性質で、犀星は、寺の庭やすぐ裏を流れる犀川に慰めを求めていました。

 何と言っても印象的なのは、「つち澄みうるほひ」という冒頭です。庭の土がひんやりと湿っている状態が、目に浮かびます。雪解けの季節を重ねて、地中に水が沁(し)み込み潤っていく、そんな時間も呼び起こします。雪深い北陸で育まれた感受性が見事に表現されています。初冬の静けさを一層感じさせるように、黄色い石蕗の花が咲いているのです。

 中野は、金沢の第四高等学校在学時に、関東大震災で郷里に避難していた犀星と初めて出会い、師事が始まります。犀星は、晩年の随筆「『驢馬』の人達」(『文学界』1959.7)で若き中野との交流を回想しています。当時、東京の田畑にあった犀星の家は、中野たちが創刊した『驢馬』同人たちが集い、時に夕食を摂(と)る場所でした。犀星は、経済的な援助をしつつ、原稿や編輯(へんしゅう)方針には一切口を出さなかったそうです。犀星のおおらかさは若者たちを暖かく包んだことでしょう。中野は、犀星没後に刊行された『室生犀星全集』(新潮社)の編集委員になり、別巻2巻を含めた全14巻全ての「後記」を書いています。犀星への敬愛の深さがわかります。

 「しらなみ」と同時に『裸像』に発表されたのが、「挿木をする」です。

 今日は三月二十三日/仄(ほの)かにこな雪がちらついて/あたゝかな春の彼岸の中日です/おいで妹たち/ぼくらは挿木(さしき)をしよう/祖父(ぢい)さんやそのまたお祖父さんたちがやつたやうに/今日はほとけの日で挿木の日だ/雪は僕らの髪の毛にかゝらう/そして挿木はみづみづと根をさゝう

 浅春の淡雪の中で、先祖から受け継がれてきた風習と共に、挿木も「みづみづと」根を下ろしていく。習俗と季節感が一体化した光景です。犀星の「つち澄みうるほひ」が連想されます。中野もまた、淡雪が沁みていく土が養う命をうたうのです。

 「しめり」と「うるほひ」は表裏一体だと言えるでしょう。中野はこの後、東京帝国大学に進学し、プロレタリア文学の旗手として活躍していきますが、根底にある季節の感受性は、犀星から中野へと継承されています。私達は、風土によって培われるものを詩人たちを通して発見し、確かめることが出来るのです。(11月26日福井新聞掲載)

⇒ふくい日曜エッセー「時の風」は福井新聞D刊に最新回

◇くのり・じゅんこ 1962年福井県大野市生まれ。大野高校、福井大学を経て北海道大学大学院文学研究科単位取得退学。博士(文学)。宮城学院女子大名誉教授。著書に「室生犀星の詩法」「詩人・木下夕爾」(第23回小野十三郎賞特別奨励賞)エッセー「詩の外包」句集「風景」など。大野市在住。

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