ボーダーフル・ジャパン 第7回 「関門を越えて」

1974年、宮崎に近い清武に移った私だが、市内の進学塾、学習受験社に週一回通うことになる。毎週日曜日には算数のテストがあり、県内の優秀な小学生が集う。そこで再会したのが都城のときの同級生。ちょっと会わない間に、彼は県で一番の優秀な生徒になっていた。

受験勉強などしたことがない私は当初、下位に低迷していたが、徐々に成績が上向きに。この塾に通う小学生たちは鹿児島にある私立ラ・サール中学校を目指しており、私もその一員に加わった。親父が言った。ラ・サールに入れば、人生の「急行券」を得られるからと。私はいま勉強しておけば、あとは遊んでいいのだとばかり、すっかり勘違いした(その現実が鹿児島で私に重くのしかかってくる)。

1975年の春、読売と広島のオープン戦に連れていってくれたのも、いま思えば、合格祝いだったのだろう。間もなく親元を離れる私へのもうひとつのプレゼントもあった。本州への旅である。小学低学年の頃、大阪で万博があった。同級生で行ったものもおり、私も行きたいと親にせがんだが、断られた。金も時間もなかったに違いない。

関門海峡を越えて、広島へ

寝台特急「彗星号」(出典元:裏辺研究所)

おそらく両親には、これがどこかにひっかかっていた。鹿児島に行く直前の3月末、広島に連れて行くと母が言った。なぜ広島なのかはわからないが、とにかく本州初上陸である。しかも当時、都城と宮崎を始発にしていた夜行寝台特急「彗星」号に乗るという。都城から新大阪まで夜行列車でいくとは、素晴らしい。もっともあいにく都城発の2号は早発過ぎて、広島に止まらないこともあり、19時06分宮崎発の彗星3号に乗車した。

初めて乗る寝台に興奮したはずだが、ぐっすり寝てしまい、いつ本州に入ったかは記憶にない(時刻表では小倉0時40分着、門司には停車せず、下関0時55分着)。列車は4時11分に広島に到着。あまりに早すぎてどこもやっていない。駅の待合室で母と仮眠をとったことをよく覚えている。

広島で何をしたって? 路面電車に乗りまくること。母は都会のデパートめぐりもしたかったようだが、電車にのりまくりたい息子につきあってくれ、ほぼそれで一日が終わった。宮島口まで電車で行って帰るだけで相当な時間がかかることはみなご存じだろう(もちろん、宮島には行かず、そのまま引き返しただけ)。ほぼ全線のったはずだが、時間が足らず、一つの線(盲腸線)だけ乗れなくて悔しかった。

初めての山陽新幹線は・・・

山陽新幹線(出典元:裏辺研究所)

広島には泊まらなかった。3月10日に開通したばかりの山陽新幹線で博多へ向かう。宿泊は母の妹夫婦の団地。きっと息子を新幹線にも乗せたくて、広島旅行を思いついたのだろう。福岡は母の故郷であるから、えびの号で何度も訪れていたが、本州の都市から「下る」感覚は新鮮だった(と思う)。だが乗車時間が短いせいか、彗星に比べて、新幹線の記憶はあまりない。

このとき福岡が鹿児島に次ぐ、私にとって九州のもうひとつの故郷になるなど、まったく思ってもなかった。

(これまでの寄稿は、こちらから)

寄稿者 岩下明裕(いわした・あきひろ) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授

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