香川県出身の川田隆一さん(63)は生まれつきの全盲だ。中2で親元を離れて東京教育大附属盲学校(現在の筑波大附属視覚特別支援学校)に転校し、寮生活を始めた。ただ、夕食の時間が早く、育ち盛りには苦痛だった。寝る前にお腹がすいてしまう。そんな時、同部屋の弱視の生徒は近くの小売店にカップ麺やお菓子を買いに行く。しかし、全く見えない川田さんには怖すぎる。
地元ではどこへ行くのも親と一緒だっただけに、つらさを感じた。それでも腹の虫が鳴くのに耐えられず、ある日、同じ部屋の生徒に道順を聞き、必死の思いで外出。歩いてたった5分ほどの距離をなんとか無事に往復できた時、世界が広がったように感じた。
「空腹のおかげで、一人で歩けた」
視覚障害者にとって外出は事故の危険と隣り合わせで、どうしても引きこもりがちに。1人での散歩など夢のまた夢で、考えたことすらないという。ところが、それが可能になるアプリが開発された。川田さんも、その普及に携わる1人だ。ただ、アプリの可能性を詳しく聞くうちに、テクノロジーだけでは困難な課題も浮かび上がってきた。(共同通信=小田智博)
▽外出は目的地があるときだけ
大学を卒業した川田さんは、東京都の情報サービス企業「ダイヤル・サービス」を皮切りに、企業や公的機関で働いた。ただ、1人で外出するのは通勤など、目的地が明確な場合に限られる。しかも、事前に歩行訓練士の指導を受けるなどして道順を入念に確認し、「マンホールを確認したら右に曲がる」といった手がかりを一つ一つ覚えなければならない。
「安全に、電柱などにぶつからないで、時間通りに着けるかどうかを考えるので精いっぱいだった」
ところが昨年、かつて新卒で働いたダイヤル・サービスから連絡があり、こんな誘いを受けた。
「北九州市のベンチャー企業『コンピュータサイエンス研究所』が開発したスマートフォンのアプリを広める仕事を手伝ってくれないか」
アプリの名称は「Eye Navi(アイナビ)」。視覚障害者の外出・歩行を助けるアプリだ。川田さんは広報や、利用者の声を聞き取って機能改善を提案する仕事に携わるようになった。
▽まっすぐ歩けて「ありがとう」
アイナビはどんなアプリなのか。10月12日、東京都文京区の文京盲学校で体験会が開かれ、私も参加してみた。
利用者はまず、アプリを起動させたスマートフォンを専用のポーチに入れて首にぶら下げ、スマホのレンズを体の外側に向ける。このレンズが進行方向の障害物や信号などをリアルタイムで読み取り、音声で知らせてくれる。
体験したうちの1人、高等部2年の宮崎保和さんは弱視。白杖を持ち、点字ブロックの上を歩いていたところ、さっそくスマートフォンから「ポール、ポール」と注意を促す音声が聞こえてきた。
宮崎さんの左手前方の歩道上には、横断歩道があることを示す標識ポールが立っている。点字ブロックから少しはみ出ると、ぶつかりかねない位置だ。
宮崎さんは「なんか安心」とつぶやき、ゆっくりと標識の脇を抜けた。
さらに進むと「3時の方向にファミリーマート」とお知らせが入った。
宮崎さんは「おおー」と感嘆の声を上げた。私が確認すると、店は確かに3時の方向にあった。
さらに進んだ宮崎さんはそこで立ち止まり、試しに車道の方を向いてみた。すると「左に向いて下さい」と注意の音声が響く。体の向きを元に戻すと、すかさず「正しい方向です」。
宮崎さんは思わずスマホに「ありがとうございます」と話しかけ、ほおを緩めた。
視覚障害者にとって、この「向きを修正する」機能は特にありがたいという。まっすぐ進むことが、点字ブロックなどの補助なしでは難しいためだ。
ゴール地点の学校に戻ってきた宮崎さんは「いい経験になった」と声を弾ませた。
▽「自分にはできないと思っていた」
体験会では、広報を担う川田さんが文京盲学校の教員や生徒らに機能などを説明した。とりわけ熱を込めて話したのが、「散歩」を支援する機能だ。
このアプリには「目的地モード」と「お散歩モード」の二つがある。前者はその名の通り、目的地までの道案内をしてくれる。
後者は目的地を特に設定せず、周辺の施設の情報を案内したり、障害物や信号、横断歩道を知らせたりしてくれる。これを使えば、目が見えなくても散歩ができる。
川田さんは「お散歩モード」という名称を初めて聞いた時、衝撃を受けた。
「常識を揺さぶられた」と感じたという。全盲の自分には不可能なことだったからだ。早速、アプリを起動させ、試しに自宅の周りを歩いてみた。すると、新鮮な驚きに包まれた。
「喫茶店とか、全然知らない店がたくさんあった。カルチャーショックを受けた」
体験会に参加した高等部2年の宮崎さんも、期待を口にした。
「『散歩』という選択肢があるだけでうれしい」
注意が必要なのは、視覚障害者がこれまでまったく散歩に行けなかったわけではない。「同行援護」という支援制度があり、資格を持つヘルパーが移動のサポートをするほか、必要に応じて代筆や代読も行う。日本視覚障害者団体連合(日視連)によると、支援の用途は幅広く、散歩への同行も頼める。
ただ、地域によってはヘルパーの人数に限りがある場所もあり、費用もかかる。「思い立ったらすぐに外出」というわけにはいかない。結果として、自宅に引きこもりがちの当事者がまだまだ多いのが現状という。
それだけに、アイナビに関わるようになった川田さんの夢は膨らむ。機能をさらに拡張し、例えば道の脇の植物に反応して「きれいな花が咲いています」などと話してくれたら、一層楽しくなりそうだ。「散歩をするには誰かに同行してもらうしかなかった。でも、一人で歩きたいときだってありますよね」
アプリを開発したコンピュータサイエンス研究所の営業企画・企画開発統括部長の高田将平さんは、利用者の反応に驚いたという。「『散歩』にこんなに反響があるとは思っていなかった」
アイナビのダウンロード数はこれまでに1万回超。「息子が外出するようになった」「人生でなくてはならないアプリです」などと感謝の声が届いているという。
▽音を消された信号機、命がけの横断
ただ、アイナビの障害物検出能力は完璧ではない。特にサービス開始当初は、遠くにある牛丼チェーン「吉野家」の看板を赤信号と誤認するなど、問題点がいくつも見つかった。一つ一つ解決しているが、それでも弱点はある。たとえば、青信号の点滅は検出できない。
川田さんはそうした点を踏まえ、利用者の努力の必要性も説く。「歩行訓練士に正しく指導してもらうなどして、安全に歩くスキルを視覚障害者本人が身に付けることも大事だ」
必要なのはそれだけではない。目が見える人の支援や理解も欠かせないと強調している。
例えば、視覚障害者が横断歩道を安心して渡れるように、「ピヨピヨ」「カッコウ」などの音で、青であることを伝える音響式信号機もそうだ。周囲の住民から「うるさい」と苦情が入るなどし、それを受けて深夜帯は音が鳴らないよう設定されている信号が目立ち、困ることが少なくない。文京盲学校での体験会に参加した一人は、こう打ち明けた。
「家の近くの信号が鳴らない時間帯は、勘で渡っている」。文字通り命がけだ。川田さんの自宅近くの信号機も、午後8時から翌日午前8時までは音が出ない。「人が少ない深夜帯や早朝こそ、音が出ないと危ないのに」
アプリを利用する視覚障害者が一番喜んだのは、実はこの点だ。アプリのおかげで音が鳴らない信号でも渡っていいかどうかが判別できるようになった。
ただ、川田さんは複雑な思いを抱いていた。安全性の面から考えれば、本来は音声が流れる方が望ましい。現状では仕方なくアプリを使うしか方法がない状況と言える。
「このままでいいのか、社会全体で考えてほしい。アプリがあればいいというものではない」。川田さんはそう訴えた。