東山紀之 継父から暴力、プールがお風呂代わり…引退決断の苦渋に秘めた壮絶幼少期

「ありがとう」

鳴り止まぬスタンディングオベーションのなか、東山紀之(57)は何度も頭を下げ、客席に別れを告げた。

11月23日、東山の主演舞台「チョコレートドーナツ」が名古屋市で千秋楽公演を迎えた。東山は旧ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏の性加害問題をうけて、年内で芸能活動を引退し、SMILE-UP.の社長業に専念する。この日が俳優としてのラストステージだった。

東山は‘85年、少年隊のメンバーとしてデビューして以来、音楽活動や俳優業、司会業、タレント業など幅広く活躍してきた。そのため、いまだ《引退は、残念過ぎる!》《これで終わるなんて残念。引退だなんて勿体ないよ》《引退なんてもったいない。絶対現役で続けてほしかった。見れなくなるのはとても残念です》と惜しむ声が後を絶たない。

9月に開かれた会見で被害者と向き合う姿勢を示す中で、「夢や希望を握り潰された彼らと夢を諦めた僕とで、しっかり対話をするということがいいのかなと思います」と語った東山。

道半ばで夢の舞台から降りる辛さをにじませたが、それもそのはず。壮絶な幼年期を乗り越えたどり着いた場所だったのだ。

‘66年9月30日、神奈川県川崎市に生まれた東山。人生最初の記憶は、父方の祖父が酒に酔って暴れ、ポットの熱湯を生後8ヵ月だった自身の足にこぼされた“痛み”だったという。

「この火傷によって東山さんの左足の指は変形してしまいます。これはのちにダンスを続ける際の支障となりました。東山さんが筋トレを続けているのは、この変形による体への負荷を減らすためなのです」(芸能関係者)

祖父と同様、大酒飲みだったという父。それだけでなく、父はギャンブルにのめりこみ、家にまで借金取りが押しかけてくる事態に。当時の様子について’21年1月放送の『1周回って知らない話&今夜くらべてみました 合体4時間SP』(日本テレビ系)で、東山はこう明かしている。

「母が、玄関で正座して座って、その前に包丁が突き刺さっているっていうのは記憶には残ってますけどね」

そして、東山が3歳のときに両親が離婚。母は、女手一人で東山と妹を養うため働きに出たが、それにも限界があった。

「東山さんは、貧しさのあまり、近所から残り物の豚足をもらって空腹をしのいだことや、遊ぶお金がなかったため、もらった銭湯代でゲームをやり、その代わり学校のプールに忍び込んで体を洗っていたといいます。母親は朝から晩まで働き詰めだったため、東山さんと妹さんがご飯と味噌汁を作る係をしていたそうです」(前出・芸能関係者)

■「酔っては『この野郎!』とわけもなく殴られた」

東山が小学四年生のときに母は再婚したが、今度は継父の暴力が襲う。その壮絶さについて、’10年6月に出版された自著『カワサキ・キッド』(朝日新聞出版)でこう綴っている。

《飯を炊いていない、口答えすると言っては、たちまち拳骨で殴られた。最初はあんなにやさしかったのに、やり方は激しさを増してゆく。自分の教育方針が通じない鬱憤もたまったのだろう、一年もたつと酒量が増え、酔っては『この野郎!』とわけもなく殴られた》
《追い詰められ、親に殺意を抱く子供の気持ちも僕にはわかる気がする》

家庭から逃げ出したいーー。そんな東山にとって転機となったのが、ジャニーズ事務所への入所だった。小学校の卒業を目前に控えた春先、NHKホールで『レッツゴーヤング』の公開収録を見た帰り道にジャニー氏からスカウトされたのだ。

訪れた稽古場でダンスを学ぶことが次第に楽しくなっていったうえ、常に空腹だった東山にとってはレッスン後に、ジャニー氏が焼肉やハンバーガーショップにつれていってくれることがなにより嬉しかったと言う。

そして、高校生になり家を出て合宿所での暮らしを始め、’85年12月に少年隊として「仮面舞踏会」でレコードデビューしたのだった。バク転やバク宙といった少年隊のアクロバティックなパフォーマンスは多くの人を魅了。翌年には、レコード大賞など、新人賞を相次いで受賞し、紅白歌合戦にも出場した。デビューから30年以上たつ今も、当時のCDが高値で取引されるなど人気は衰えない。

壮絶な生い立ちを経て、芸能界という輝かしい世界で功績を築いた東山。皮肉にも、その夢を奪ったのは、チャンスを与えたジャニー氏だった。今後、“ジャニーズ事務所”の長男は、被害者の救済に人生をかけて取り組んでいくーー。

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