震災と戦争の歴史を背負う“幻のピアノ”現代によみがえった音色 途絶えてから80年近く・・・浜松市の一角で【現場から、】

浜松市中区の居酒屋に置かれたピアノ。国内には30台しかない希少なものですが、そのルーツには関東大震災と戦争の歴史がありました。

【写真を見る】震災と戦争の歴史を背負う“幻のピアノ”現代によみがえった音色 途絶えてから80年近く・・・浜松市の一角で【現場から、】

浜松市中区の"ジャズ居酒屋"「和音」。地元のバンドがコンサートを行う中、ひときわ目を引くのが年季を感じるピアノです。

<客>
「ノスタルジックというか、いい音だと思います」
「響きが優しい」

店主の夫、川嶋秀典さんが9年前、インターネット
で購入しました。ピアノの名は「周(しゅう)ピアノ」。横浜市で製造されたものですが、国内ではわずか30台ほどしか確認されていません。約80年前に製造が終了したためです。

<「和音」店主の夫 川嶋秀典さん>
「浜松は楽器の街ですからピアノはヤマハ、河合に限らず、たくさんのメーカーがあったのは小学生の時から存じ上げていたんですけど、(横浜で中国人が作ったイギリス系のピアノっていうのは自分の知識の中になくて)それが100年前に作られたっていうのは、どういう音がするんだろうと惹かれました」

<静岡新聞 小林千菜美記者>
「100年以上前、華僑と呼ばれる中国人が横浜の港町に移り住みました。それが今の横浜中華街です」

「周ピアノ」の創業者は周筱生さん。日本に移り住んだ中国人、いわゆる「華僑」の一人でした。

<横浜ユーラシア文化館 伊藤泉美副館長>
「横浜でもイギリスやドイツ系の楽器商があったんですが、そのイギリス系のあるピアノ工場の主任として周さんが横浜に招かれてやってきたんです」

周さんのピアノは、まろやかで深みのある音が評価を呼び「家が一軒買えるほど」の値段で販売されていました。

<横浜ユーラシア文化館 伊藤泉美副館長>
「大正の時期になると、日本の富裕層ですけど、近代文化的な生活の一つとしてピアノが一つの嗜みとして広がっていく、その時期にあわせて周さんのピアノも工場も会社も大きくなっていったんじゃないかと思います」

1923年9月1日、関東大震災が発生。横浜中華街は甚大は被害を受け、「周ピアノ」の店舗も潰れました。当時46歳だった周さんは店の下敷きになり、その生涯を終えることとなりました。

「周ピアノ」を引き継いだのが長男・周譲傑さんでした。母などの協力のもと、譲傑さんは「周ピアノ」の復興に力を注ぎ、再びそのブランドの名を轟かせました。

しかし、太平洋戦争末期の1945年。空襲が横浜を襲い、周ピアノの工場も焼失しました。譲傑さんは英語が堪能だったこと、上海に頻繁に行き来していたことなどからスパイ容疑をかけられ過酷な拷問を受けました。

そして、空襲の翌年、他界。受け継ぐ人はおらず、「周ピアノ」は30年あまりの歴史を閉じたのです。

<横浜ユーラシア文化館 伊藤泉美副館長>
「戦争の被害者というと日本人しかいないような感じがしますけど、横浜の場合は1945年の段階で横浜生まれの外国の人ってたくさんいたので、ここを故郷とする外国系の人たちも戦争の被害にもあって、その一つが周ピアノの終焉なんではないかなと思います」

<「和音」店主の夫 川嶋秀典さん>
「全国に数少ないですけど、残されたこのピアノを大切にしながら、歴史の部分も含めて残していきたいと思います」

震災と戦争の歴史を背負う「周ピアノ」。途絶えてから80年近く経った今も浜松市の一角でその音色は響いています。

「周ピアノ」は戦時の外国人への偏見により終わりを迎えてしまった側面があります。持ち主の川嶋さんは、周ピアノを通して店を訪れた人に、この歴史を語り継いでいきたいと話しました。

© 静岡放送株式会社