「ここは長崎街道の古賀の里~♪」 歴史薫る長崎街道まち歩き学習会 

風格さえ感じさせる旧本田家住宅=長崎市中里町

 「あぁヨイヨイよいところ歴史が薫る ここは長崎街道の古賀の里~♪」。長崎市の東部地区を担当するようになって2年目。もう何度この「古賀音頭」を聞いたか分からない。「ところで西洋の技術や文化を伝えた『長崎街道』って、一体どの道なの?」。地図を読むのが苦手な記者が目を付けたのは、東公民館の学習グループ「郷土史勉強会」のまち歩き学習会。11月、約40人の参加者と連れ立って約4.5キロを歩いた。

 旧長崎街道は、江戸時代に福岡・小倉―長崎間の200キロ以上を結んだ幹線道。旧街道沿いは今も往時の雰囲気を感じさせ、歴史スポットが点在する。東町の長龍寺公園をスタートし、古賀町方面へ向かった。
 「古賀には日本有数のものがいっぱいあるんですよ」。代表の田上春幸さん(72)と会員が道案内。役(えん)の行者神社を過ぎると領境石があった。「従是南佐嘉領(これより南、佐賀領)」-。ここから北は旧幕府領。松並木の道を進めば、たちまち江戸時代にタイムワープしてしまいそうな風情だ。
 1858年、増加する外国人の居留地確保のため大村領戸町村を幕府領(天領)にする代わり、幕府領の旧古賀村の約半分(現中里町、船石町付近)は大村領になった。「村全体が大村領と書かれている書物もあるが、半分は天領で残ったという事実を知ってほしい」と田上さんは強調する。
 11人の名が刻まれた、立派な石碑の前に来た。1612年の幕府の禁教令以降、徹底した弾圧を耐え抜いたキリシタンの「殉教之碑」。現在の古賀地区にキリスト教の教会はないが、1593年ごろは全住民がキリシタンだったという。福瑞寺には花十字紋入り、かまぼこ形の貴重なキリシタン墓碑も残され、同形では日本最大の墓碑らしい。
 続いて、日本三大土人形の一つ「古賀人形」の工房(中里町)へ。窯入れ前に天日干しする土色の人形が整然と並んでいた。19代目の小川憲一さんが1人で作る人形は、注文から早くて4カ月、半年ほどのペースで納品されるそう。ユーモラスな表情と原色の色使いが魅力的だ。
 ゴールは工房そばにある国指定重要文化財の「旧本田家住宅」。約230年前に建築されたとみられる大きなかやぶき屋根の民家は間仕切りがなく、今はやりの広いリビングダイニングといった感じ。県内最古の民家と考えられている。初めて訪れた同市かき道4丁目の小森信子さん(72)は「こんな身近な場所に歴史ある建物が残っているなんて。豊かな暮らしぶりが想像できる」と声を弾ませた。
 旧街道を歩けば、資料で読んだ史実ががぜん身近に思えるから不思議だ。見慣れた風景の中に、いにしえが薫る古賀地区。「あぁヨイヨイよいところ歴史が薫る ここは長崎街道の古賀の里~♪」。古賀音頭を何度もリピートしたくなるのもうなずける。

11人の殉教者の名前が刻まれた碑に手を合わせる参加者=長崎市古賀町

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