日本代表は昨今“歴代最強”とも言える強さを発揮しているが、そのチームを牽引しているのが伊東純也だ。
組織とテクニック偏重だった日本に伊東のようなタイプは珍しい。右サイドをたった一人で突破できる彼の存在が戦い方の幅を広げ、現在の快進撃に繋がっていると言っても過言ではないだろう。
ただ伊東のような選手が過去にいなかったわけではない。もしかするとこの男が先に成功していれば、日本サッカー界の発展の仕方は変わっていたのかもしれない。
それが水野晃樹である。
端正な顔立ちと右サイドを切り裂く圧倒的なスピードで瞬く間にスポットライトを浴びた彼は、間違いなくトップスターとしての資質を備えていた。
中村俊輔がレジェンドとして君臨していたセルティックへの移籍も果たし、日本代表の中心になることも確実視されていたのだが…。その後紆余曲折を経て38歳となった彼は、今も現役でプレーしている。
Qolyでは今年、J3のいわてグルージャ盛岡で「Jリーガー復帰」を果たした水野に単独インタビューを実施した。
現役続行を決断した理由と社会人リーグでの経験
――現在38歳の水野選手。2020年にSC相模原で契約満了となり、一度は引退を決断されたそうですね。そこから現役続行された理由を伺えますか?
それはもう妻の一言で。
自分もサッカーをやりたい気持ちが強かったんですが、家庭を持ってて子供も大きくなっていたので引退を考えていました。
それを妻に伝えると、「もし社会人だとしてもサッカーできる環境があるんだったらやってほしい」と言われたんです。
SC相模原での最後の1年は、一度もベンチ入りもできないまま1年間が終わっていました。
妻としても「まだプレーしてる姿を見たい」という想いがあったようです。そう言ってもらえたので社会人で頑張ろうという決断ができましたね。
――初めて社会人リーグのはやぶさイレブンでプレーされましたが、Jリーグとの違いは?
まずは環境ですかね。入った当初は夜間の練習でフットサル場でしかプレーできませんでしたし、日中の練習になったとしても人工芝がメインでした。
もちろん練習後にシャワーを浴びる場所もありません。でも他の選手は仕事してからサッカーに来ているので、そういう環境はしょうがないと思っていました。
自分(水野)のJリーグでの経験に興味があって話を聞いてくる選手もいました。
ただ彼らはプロではなくアマチュアなので強く言えない部分もありました。練習に遅れてくる選手も普通にいますし、「仕事で休みます」という選手もいる。
難しい環境でしたが、それでもサッカーを楽しみにしている仲間たちがいましたし個人的にはすごく楽しかったです。
なおかつ一応クラブもJリーグ入りを目指してやっていたので、みんなと勝利を分かち合えた時間というのは自分にとってかけがえのない時間でした。
毎年昇格できたので、素晴らしい結果を残せたのかと思いますね。
――地域リーグでの2年を経て、プロ20年目の今年再びJリーグに戻ってきました。いわてグルージャ盛岡からオファーが来た時の率直な気持ちは?
嬉しい気持ちが一番ですね。
J2から降格が決まった翌年っていうのはすごく大事な時期なんで。そういう大事な時期にチームに携われることはすごく喜ばしいことだと思いました。
――はやぶさイレブンの退団をSNSに報告したのが1月11日。その10日後の21日に盛岡への加入が発表されました。その間にどんなことが起きたんですか?
本当に急に決まって。退団した時点ではまだ先のことは何も決まってなくて。そこからいろんな繋がりからお話をして、入団っていうとこに決まったんで。
自分自身も2年間の社会人のキャリアっていうところを含めて、お話をいただけたっていうのはすごい驚きでもあります。
――投稿には「ラストチャレンジ」と書かれていましたがそこに込められた想いは?
正直社会人に行った時点で「もう一度プロで」っていうのは、目指してはいたんですけどなかなか難しいというのは自分の中でもすごい思ってました。
ただサッカーを続けてるっていう意味で、やっぱりどこか目標設定しなければやりがいは感じられないと思ったので「もう一度Jリーグでプレーしたい」っていうのは思ってましたけど。
でもまさかっていう…自分でもそういう気持ちが強かったです。
生い立ちからジェフへの加入、名監督との出会い
水野はサッカー王国・静岡の中でも有名な清水市で生まれ育ち、名門・清水商業を経て2004年にジェフユナイテッド千葉に加入した。そこで偉大なる名監督と出会い、飛躍的な成長を遂げることになる。
――水野選手はサッカーどころの清水市ご出身ですね。他の町との違いを感じたりしますか?
違うというか、生まれて記憶があるうちから目の前にボールがありました。兄もずっとサッカーをやっていたので自然とサッカーをする道のりができていましたね。
なおかつ「サッカー王国」と言われた清水だったので、サッカーができる環境がすごくあったんですよ。
ここ最近は公園に行っても「ボール禁止」「大声禁止」とかいろいろ書いてあったりもあったりしますけど、僕の子供の時代は…清水だけだと思うんですけど公園にサッカーゴールが設置されていました。
そんな公園がほとんどなんですよ。なのでサッカーのない日であってもみんなに声をかけて誘って、「あそこの公園で今日みんなでやろうぜ」と遊んだりとか。
そういう環境で良かったな、清水で良かったなってはすごく思います。
――地元の清水商業から2004年にジェフへ加入。その経緯はどういう形だったんでしょうか?
実は、学校の先生…監督を怒らせてしまった事件があって。
一応清商2年の時には全国大会、3年の時には国体の選手に選ばれるなど、試合には出ていて活躍もできてたんです。
ただ当時の監督からは「今のままだとプロでは絶対通用しない。行けたとしても2,3年で絶対終わってしまうからお前は大学行け」と言われていました。
なぜかというと身長173cmに対して体重が52,3kgとかしかなかったんです。「もやし」とか「マッチ棒」と言われるくらい細くて。
そういうことも含めて監督が大学進学を勧めてきて、筑波大学の面接に行きました。
ただ事前準備が甘かったというか、それまで大人の方と喋る機会があまりなかったので面接の時に頭が真っ白になってしまって。推薦で行ったにもかかわらず落ちてしまいました(笑)。
その時点で監督に怒られて…。その後他の大学に願書を出してそこに行くという話を先生…監督と決めてたんですが、その後ジェフからお話がありました。
当時ジェフのコーチが清商の卒業生である江尻(篤彦)さんでした。ジェフはその年即戦力の選手を取れなかったので、育成として僕に目を付けて声をかけてくれたっていうところが始まりですね。
――そのジェフで出会ったのがイヴィチャ・オシム監督ですね。最初に会った時の印象はどうでしたか?
ご存じか分からないんですけど、高校時代の監督が大滝(雅良)先生って言うんですけど上背もあってそれはもう強面の顔で。だから先生に近い印象を受けました。
本当に眼光が鋭くて、大滝先生よりも背が大きい…192cmありましたし。しかも外国人だということで。第一印象はそんな感じですね。
――印象的だった練習などはありますか?
一般的にはビブスを10色使ったりとか、全面で3対3やったりだとか、休みがないだとか色々言われてますけど…。でも自分のプロ1年目の監督がオシムさんなので。比べる要素がなかったので、プロはこれが当たり前なのかと思ってました。
「(プロは)こんなキツいんだ。でもこれに付いていかなければプロには(もちろんプロにはなってるんですけど)本物のプロにはなれない」と。いろいろ考える余裕もなく、必死で付いていって、あっという間の2年間くらいでしたね。
――実際に聞いた「オシム語録」と呼ばれるような言葉はありましたか?
頭によく残ってるのが「3つ先のことまで考えろ」っていうことですね。
オシムさんはよく選手の特徴を見ていて、僕の場合は「止まったプレーよりは動きながらのプレーをやったほうがいい」と。止まったプレーをした時には「お前はジダンか?」「今の時代に止まってプレーしていいのはジダンだけだ」と言われました。
その言葉がすごく印象的でしたね。
――オシム監督が2003年に就任して以来、ジェフはリーグ戦で上位に進出しナビスコカップでは初タイトルを獲得しました。当時のジェフはどういう点で相手チームを上回っていたんですかね?
練習をやったら勝てるんですよね。
言わないんですよ、オシムさんって。あえて「次のチームがこういうことしてくるから、こういうプレーをしていこう」っていうのは言わない。
練習をするときには「今週はこういうプレーをちょっと多めにやろう」と。だけどそのプレーが実際試合の中で表れるんです。「あ、これ練習でやった。じゃこうすればいいのか」という答えが出てくることがすごく多かったです。
休みも本当に1ヶ月に一回、急に明日休みと言われたりします。でも結果が出るので必死に走ってきたのが報われる。選手はそれが楽しくてしょうがない。
土曜が試合だったら日曜はサブ組が練習試合を組んで、水曜日にもう一回試合を組んで、そっちは次の試合のスタメンに関係なく全員プレーするとか。
わざと10人でやったり、2タッチでやったり、60分1本でやったり。バックパスしたらダイレクトプレーだとか、そういうルールをつけてやる。それが実際次の試合で出てくるんですよ。そうなってくると、「お、来週は何やるんだ?次の試合は何やるんだ?」となる。
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誰も疑わず練習に取り組んだ結果、2シーズン制でも結果を出すことができました。それが当時「オシムマジック」と言われてた所以なのかなって思いますね。