「セルティック移籍が失敗だったとは思わない」水野晃樹インタビュー後編

今年、J3のいわてグルージャ盛岡でJリーグ復帰を果たした元日本代表MF水野晃樹。

端正な顔立ちと右サイドを切り裂く圧倒的なスピードで瞬く間にスポットライトを浴びた彼は、間違いなくトップスターとしての資質を備えていた。

中村俊輔がレジェンドとして君臨していたセルティックへの移籍も果たし、日本代表の中心になることも確実視されていたのだが…。その後紆余曲折を経て38歳となった彼は、今も現役でプレーしている。

盛岡MF水野晃樹インタビュー前編

インタビューの後編では、世界との差やセルティックでの経験などを語ってくれた。

世界で感じた衝撃

――2005年のワールドユースの話を伺いたくて。あの大会は地元オランダに敗れたもののベスト16。後に日本代表でも活躍される選手もたくさんいました。

オランダ初戦でちょっと…ちょっとどころじゃないな、衝撃を受けました。

中村北斗、小林祐三とか国内でも対人に長けたDF陣がクインシー・オウス=アベイエに正直手も足も出せない状況になって。「世界との差はこんなに遠いのか…」っていうのを感じましたね。

それにグループステージを通じて1勝もできなかったっていうのがすごく僕の心に残ったというか、それが海外に行くきっかけになりました。

でもあの大会はメッシがMVPに選ばれたりとか凄い面々とやれてたんだなって今になれば思います。

――一緒に出場した家長昭博選手などまだ現役で活躍されている同世代の選手がいますね。彼らから受ける刺激は大きいですか?

当時からアキ(家長)はすごかったですね。あまりスタメンから使われるような選手ではなかったんですけど、途中から出てきたら俺はもう「アイツに預けよう」と。

上手いからボールを失わないし、ゴールまで運べるし。年下だけどすごく頼りになるというか。そういう選手が長くサッカーを続けてる、しかもJ1でプレーしてるというのは本当に刺激にもなりますし、なんか楽しみで見ちゃいますよね。

だからフロンターレの試合とかはもう『DAZN』でよく見ますね。

――家長選手との思い出とかありますか?

代表チームの中でも『グループ分け』があって、彼は関西グループに行くんですよ、やっぱ。

家長とか本田圭佑とかあそこら辺が中心になって集まるところと、どちらかというと僕は関東の奴らとか『国見三銃士』(兵藤慎剛、中村北斗、平山相太)が一緒によくいましたね。

そんながっつり話す関係ではなかったですけど、ピッチに入ったら「頼むぞお前」みたいな感じで思ってましたよ。

――先ほどメッシの話が出ましたが、彼が登場した辺りからロッベンなど「右サイドでプレーする左利きの選手」が増えました。水野選手は右利きで右サイドでのプレーが印象的なんですけどその辺りはどう感じていましたか?

僕もチームで何度か左サイドで試されたことがあったんですけど、あんな感じにはできなかったです…。

なんかイメージ的に「右利きは右サイド」「左利きは左サイド」っていうのが主流の時代だったと思うんで。

だから(利き足と逆のサイドでプレーする選手をみて)「あ、なんかこういう感じもあるんだ」「そっちのほうがフィニッシュに持っていきやすいんだな」みたいな。

でも僕はフィニッシャーというよりはどちらかというとクロスからのアシストというものが多かったので、右サイドのほうがいいなと思ってました。

――日本代表だと伊東純也選手が右利きの右サイドで素晴らしいプレーを見せています。彼のプレーはどう見ていますか?

実は、僕が甲府にいた時に彼(伊東)は練習参加に来てて、マリノスとの練習試合に一緒に出たことがあります。

僕らが苦戦してる中、彼は練習生なのに一人で3人抜きとかしてて。その時点で「うわ。この人たぶん代表いくな」と思いました。

「絶対獲ったほうがいいよ」と思ってたら僕はその翌年退団になってしまったんですけど(苦笑)、しっかり甲府は彼を獲ってて。

でももう当時から凄かったですね。足が速い選手ってボールタッチが大きくなりがちなんですけど、純也の場合は細いタッチもできますし、今となってはカットインからの左足も持ってます。

たぶん守備からしたら何をしてくるか分からないぶん絞りにくい。予測できないことをしてくるから嫌なんじゃないかな。あとあれだけ縦に引っ張ってくれるとチームとしても押し上げられるので、味方の選手はすごく助かってると思います。

――余談ですが、水野選手といえばロングスローも有名ですよね。華奢な体型なのにどうやったらあそこまで飛ぶんでしょうか?

高校時代に遊び半分で練習試合で助走を付けて投げたらちょっと飛んで。

そうしたら当時の監督から「じゃあ、お前もっとそれ飛ばせるように練習しろ」言われて。投げてたらある程度真ん中くらいまで飛ぶようになったんです。

僕は華奢だし筋肉もないですし、体も硬い。柔軟性もないのに「なんでお前飛ぶの?」ってみんなからは言われることが多かった。

自分でも(飛ぶ理由は)ちょっとよく分からないんですよね。

セルティック時代の話

ジェフユナイテッド千葉でJリーグ屈指のアタッカーへと成長した水野。北京五輪の予選でもエース格として大活躍し、2007年には恩師オシム監督が率いる日本代表でもデビューを果たした。

そして北京五輪を間近に控える2008年1月、中村俊輔が所属していたスコットランドの名門セルティックへの移籍が決まる。

この移籍については今も多くの疑問が投げかけられている。ただ水野自身の考えは周囲の意見とは全く違うようだ。

――2008年にジェフからセルティック移籍を決断されました。その理由は?

2004年にジェフに加入して、2005年のワールドユースに出場して、そこで世界との壁を肌で感じて。

やっぱり「国内だけでやってても…」というところに当たって。そこから「海外でやりたい」という意識が生まれました。

でも当時海外でプレーしている選手は片手で数えるくらいしかいなかったし、移籍自体難しかったんですけど…そのために海外に強い代理人をつけたりだとか。

ちょうどそのタイミングで、セルティックの中村俊輔さんが活躍していて、「日本人もう一人ぐらい欲しいな」となって話をもらったんです。

その時点で「行きたい。絶対に行く」と自分の中では決めてました。もちろん周りの人たちの意見も聞いたんですけど、8割9割は反対されましたね。「まだ早い」と。

なおかつ翌年北京オリンピックがある。オリンピックの予選はほぼほぼ全試合に出て、結果も出して、「オリンピックに出てからでも遅くないんじゃない?」という話はみんなからしてもらったんですけど。

でも自分の中では、その後にそのチャンスがあるかどうか分からない話ですし、今もらったチャンスを逃したら後悔する。「成功・失敗に関係なくチャレンジしたい」って思ったんですよ。

オシムさんにも話を聞きにいって、「お前にとっては1段階2段階…いや3段階くらい本当に難しい移籍だぞ」という話をされました。

それでも僕は「やっぱチャレンジしたいです」と話をして、「それだったら俺は応援するだけだ」と言われたので、もうそれで決断しましたね。

――当時のセルティックは中村俊輔選手が王様として君臨していました。彼の存在の大きさとかは色々なところで感じましたか?

いやもう彼がいる・いないでサッカーがまるっきり変わります。

いると全部俊さんにボール預けて、組み立てて。いない試合になると本当にもうラグビーのような…ロングボール多用して、デュエルの部分のところが多いサッカーになる。

自分も試合に出るにつれ、俊さんがいればボールを預けてくれるというか出してくれるのでイキイキはできたんですけど…いないとボールが回ってこない。

中盤を飛ばされて、上を眺めてる状況は続いたりとかで難しかったです。

やっぱり近くに日本人…しかも日本代表の“ナンバー10”がいるっていうのは、自分にとって心強い移籍でしたし困った時も頼れる存在でしたね。

――スコットランドで決めた初ゴールはその中村選手からのパスで決めましたね。あのゴールを今振り返ってどうですか?

あのゴールに関してはもう俊さんですね。前半、俺はボールに全然触れなくて。だから俊さんから「俺が持ったら全部走れ」って言われたんです。

その通り走ってたら、後半になってボールをこっち側に出してくれて、自分の中でだいぶリズムができていました。あの場面も言われた通り俊さんが持った瞬間に走り出して、そしたらピンポイントのスルーパスがきて点が取れたんです。

本当にもう嬉しくて、サポーターのところに行ってから俊さんのところへ走っていこうと思ってたら、チームメイトのみんなに捕まって(笑)。

(元ポーランド代表)アルトゥール・ボルツなんかキーパーなのに、相手のゴール付近にいる俺のところまで走ってきて抱き着きにきてくれました。それが一番嬉しかったですね。

――セルティックでは残念ながらあまり出場機会を得られませんでした。今だから思うことはありますか?

当時各国代表レベルの選手が集まっていて、中盤は4人ともスコティッシュ・プレミアリーグのMVP取った選手がズラリと並んでいました。

また向こうのリーグ特有のルールで、18人のメンバーの中にU-21以下の選手を3人入れなきゃいけないっていうのもあって、なかなかメンバーに入れることは少なかったんです。

でもその中でも…少ない中でも、試合に出てる時はやれてる感はすごくあったんですよね。チーム内の競争に勝てなかったんですけど、それも行かなきゃ絶対分かんない感覚ですし、そこで自分のストロングポイントとかウィークポイントとかっていう部分も掴めました。

世間的には「移籍失敗」「日本にいたらもっと良かったのに」という声も聞きますけど、自分の中では成功でしかないですね。それは強がりだとかそういう部分ではなくて、多分何をするのもやってみなきゃ分からない(笑)。僕はそういう人間なんで。

安牌を選ぶんじゃなくてあえて険しい道を選ぶほうが好き。自分の中では本当に今言ったように成功です。

――ちなみにヨーロッパで別の道みたいなのは考えなかったんですか?

ありましたよ。ありましたし、代理人とも色々話もしました。

ただ年齢的にはまだ24歳だったので一度日本に帰って、「もう一回日本で華を咲かせてから海外に行くというのも一つの手」だと代理人と話していて。

自分もそっちのほうがいいかなという想いがあり、日本に帰ることになりました。

――近年セルティックでは何人もの日本人選手がプレーして活躍してますけど、それを見て感じることは?

単純に凄いなと。素晴らしい選手たちが行って活躍していますね。

ただステップアップの場としてもっと良いクラブに今後行ってほしいなという気持ちはあります。

いわてグルージャ盛岡で成し遂げたいこと

――今年のシーズン初戦でJリーグ200試合出場を達成されました。199試合で止まっていたのは引っかかりとしてありました?

いや僕自身は全然…「仕方ないな」と言うしかなかったです。

僕の年齢で200試合ってめちゃくちゃ少なくて。みんな周りの選手はもう400, 500いってる選手が多いんで。そこまで気にはしてなかったんです。

だけどチームが決まった最初に息子が「お、200試合出られるじゃん」と言ってくれて。「なに、そんなの気にしてたんだ」と思ったんです。

自分以上に僕の周り…SC相模原の当時の選手がそれを言ってくれたりとか。自分は大して思ってなかったんですけど、周りの人がそういうの気にしてくれてたのは嬉しかったですね。

――グルージャでは決して出場時間は多くありません(最終的に12試合全て途中出場で出場時間は99分)。そんな中でも心がけていることは?

2年間社会人でプレーした中でも、キックの部分は自分の強みだと思いながらずっとやっていました。それが表現できていたのでメンバーに入れてもらって、「ワンポイントで」というところも監督と話していて。

やっぱ強いチームというのは競争がすごく激しくて、若手・ベテラン関係なくやってるチームが強いチームだと思います。そういう雰囲気作りだったりとかはやっていきたいですね。

メンバーを外れてても車で行ける範囲のアウェイには自分で行ってますし、練習の前に若いヤツに声かけたり、チーム全体で集まった時には雰囲気よくできるように話し合ったりとか。

その時々でやれることは変わってくると思うので。そういうのは経験上長くやってきました。出られない時は出られないなりの立ち振る舞いを見せていって、それが若手に伝わればなと思ってます。

――グルージャで個人として成し遂げたいことはありますか?

僕はタイトルがあとJ3優勝だけないんです。それ以外のタイトルは全部取ってるんでそこですかね。

それでね、試合にもやっぱもっと出たい。出て、勝って、優勝っていうところが目標ですね。

――ちなみに元日本代表の秋田豊氏が代表を務めていますが、秋田代表はどんな方ですか?

僕はそこまで絡みないんですけど。でもなんかすごい選手との距離感、絡み方がうまくて。

選手にとっていいモチベーターになってるっていうふうには聞いてます。

――最後にグルージャのファン・サポーターはもちろん、水野選手を応援する方々へのメッセージをいただけますか?

僕は全部で9, 10チームくらい行ってますけど…もっとスタジアムに来てください(笑)!

地方のチームというのは、やっぱり地元のサポーターとかファンの方にもっと愛されるチームを作らなきゃいけない。僕らもそういう風に見せていかなきゃいけない。

もっと岩手県で盛り上げていって、グルージャがあるから「グルージャ盛岡…あ、岩手県だ」と認知してもらう。そのためにはファン・サポーターの方々がもっともっとスタジアムに足を運んで欲しいです。

開幕戦はサポーターも多かったんですけど、2試合目になったら一気に減ったというのがありました。そこはちょっと寂しいなと思ったので。

東日本大震災の時もそうですけど…「がんばろう東北」じゃないですけど、グルージャが勇気を与えられるそういうチームになっていきたいんで。

あと来てくれたら選手は単純に嬉しいんです。スカスカのスタジアムよりいっぱい入ってるスタジアムのほうが選手もグラウンドに立って見た時に「うわ、今日いっぱいいる」ってテンション上がって力が出ます。

やっぱり選手とサポーターって一体なんですよね。なので、最初言ったようにいっぱい来てほしいです。

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