戦時中に特攻艇を試運転 長崎の松本さん 「体当たりする舟と分かっていたが…」 強まる非戦の思い

震洋の試運転を担当していた松本さん。長崎原爆にも遭い「戦争はもう起こってほしくない」との思いを強くしている=佐世保市

 太平洋戦争末期、爆薬を積んで敵の艦船に体当たりして攻撃した特攻艇「震洋」。長崎県長崎市鳴見町の松本倉松さん(95)は16、17歳だった当時、三菱長崎工業青年学校の少年工として約200艇の震洋の試運転を担当した。長崎原爆にも遭い、当時の悲惨な光景は今も脳裏に焼きついている。開戦から8日で82年。「戦争はもう二度と起こってほしくない」
 5人きょうだいの長男として、三重村遠木場郷(現鳴見町)で生まれ育った。実家は農家だったが「家にいれば徴用される」と考え、畝刈国民学校を卒業後、1942年に青年学校に入学。立神の工場に配属された。先輩から、製作する「震洋」は特攻艇と聞き、仲間内でもうわさは流れていた。
 3年生から試運転の担当になった。立神の「木工場」で、長崎刑務所の囚人が本体をつくっていた。隣にあったドックの脇で、松本さんらが4トントラックのトヨタ製エンジンを積み込んでいた。
 完成した震洋に3、4人が乗り込み、伊王島に向かう。「島の周りをぐるぐる回っていた。アクセルを踏むと、ぱーっと進んでね」。時速は30キロを超え「帽子もしっかりかぶらないと、すぐに吹っ飛ぶほど早かった」。
 試運転ができるのは天気が良い日だけ。午前9時~午後3時ごろまでの5、6時間、交代しながら一日中乗った。それでも一日2~3隻程度だった。ブレーキはなく、レバー1本で速度を調節。トラブルはほとんど無かった。「整備されたエンジンだったし『一回きりの舟』とも言っていた」
 試運転が済むと、立ち会っている海軍の少尉と中尉が“合格”を出した。震洋は訓練所がある東彼川棚町などに運ばれていった。「汽車に乗せられていくのを何度も見た。体当たりする舟と分かっていたけど、深く考えていなかった」
 45年8月9日。後輩と水をくみに行った帰り、爆心地から3キロあまりの水の浦で被爆。バケツをひっくり返し、近くのトンネル防空壕(ごう)に逃げ込んだ。幸い無傷で済み、9日のうちに実家に戻ろうとしたが、通り道の爆心地周辺は火の海。諦めて翌日出発した。
 大橋辺りの路上には無数の遺体が横たわり「のけたり、飛び越えたりして家に帰った」。息がある人から「兵隊さん、助けて…」と言われた。「何もできなかった。耳にこびり付いて今でも残っている」。原爆による混乱で、震洋の作業は中断した。
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 ロシアによるウクライナ侵攻など、世界中で戦火はやまない。核兵器の使用もちらつかせ「戦争が起こることが当たり前になっている」と危機感を募らせる。「今も昔も変わらない。戦争は人間の殺し合いだ」-。静かに、力を込めて語った。

三菱重工業長崎造船所が建造していた特攻艇「震洋」(「創業百年の長崎造船所」から)

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