弁慶伝説の町?【駅ぶら】06京王電鉄 京王線146

※2023年8月撮影

トップ画像は、「分倍河原駅」南側タクシー乗り場のあるロータリーの「新田義貞公之像」。当初は「何故、新田義貞?」と訝しく思いましたが「府中市由来碑」などで「分倍河原の合戦」を知って納得。

※2023年8月撮影

少し長いですが府中市の案内板の文言を写しておきます。

「この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原の合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。

元弘3年(1333)5月8日、上州生品神社(群馬県新田市)の社前で鎌倉討幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌9日には利根川を渡って武蔵国に入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月11日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。

同月15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。その夜、堀兼まで敗退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒濤の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。

〈中略〉

この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。

昭和63年5月 府中市」

では「分倍河原駅」に戻って、今度は駅前を北に歩きます。

※2023年8月撮影

駅前通りが「旧甲州街道(都道229号)」に突き当たります。写真の奥が「分倍河原駅」。右に京王線の踏切があります。

※2023年8月撮影

「旧甲州街道」を東に歩きます。最初の丁字路に差し掛かったところで「府中市由来碑」の「弁慶橋」がありました。(黄色い矢印)

※2023年8月撮影

「弁慶橋」の「府中市由来碑」、手前には「明治四年辛未八月」と刻まれた「石橋供養塔」があります。

※2023年8月撮影

刻まれている文言を読みます。

※2023年8月撮影

内容は、「ここに、野川に架かる弁慶橋がありました。橋の名は、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。高安寺には弁慶が写経の硯(すずり)の水にしたといわれる「弁慶の井」などが現存します。」

こちらは「石橋供養塔」、おそらく「弁慶橋」は石橋だったのでしょう。

※2023年8月撮影

さらに「旧甲州街道」を東に歩くと、また「府中市由来碑」がありました。左には「府中の名木百選 高安寺のケヤキ」の案内板もあります。

※2023年8月撮影

「弁慶坂」です。

※2023年8月撮影

内容は以下です。

「『江戸名所絵図』(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架する所の橋をも弁慶坂と号け、東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。

この坂は、高安寺に伝わる弁慶伝説に由来します。これは、高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、大般若経を書写したと伝えられるものです。高安寺は、往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵国の安国寺として中興した名刹です。この地は、武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています。」

樹高30.0m、幹周4.0mの「高安寺のケヤキ」・・・と言ってもどの木も大きいのです。左端の木でしょうか。

※2023年8月撮影

次回は「弁慶の井戸」を探します。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)

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