社説:学徒出陣80年 「いつかの道」に戻らぬよう

 日本が破滅への道を突き進んだ太平洋戦争は1941年12月8日に始まった。

 アジア・太平洋一円に侵攻し、膨大な犠牲と破壊をもたらした。敗色が濃くなった2年後、徴兵が猶予されていた大学生らを戦場へ送る「学徒出陣」が始まる。今年で80年たった。

 将来を担う若者らも駆りだし、「一億玉砕」の国民総動員にのめり込んだ転機といえる。
大学のまち・京都や滋賀からも多くの学生たちが勉学の志半ばで召集され、帰らぬ人となった。体験の証言者が減りゆく中、その経緯と教訓をどう刻み、引き継ぐかが課題だ。

 日本でいま、世界で相次ぐ武力紛争や地域情勢の厳しさに備えるとして「防衛力」の強化が、前のめりに進められている。

 国が安全保障の下に経済や暮らし、学問も置こうとする動きが強まる。「いつか来た道」を見つめ直すことは重要だろう。

 「何のために死ぬのか」。決死の覚悟と生の願望に葛藤した学徒兵の姿を伝えてきたのが、先月4日に101歳で死去した岩井忠熊立命館大名誉教授だ。

 京都帝国大に入学直後の43年12月、学徒出陣で海軍のボート型の特攻兵器「震洋(しんよう)」要員に。先に出撃した学徒らを見送った。戦後、歴史学者となり戦争への経緯を問い、非戦を訴えた。

 同志社大生だった茶道裏千家の千玄室前家元(100)も学徒出陣し、特攻機作戦の隊員となった。「みんな泣きながら戦場へ向かった。二度とあってはならない」と語り続けている。

 京都からの第1陣の壮行会は平安神宮で行われ、14校の約1300人が参加した。全国で出陣した総数は10万人以上とも推計されるが明確でない。京大生は計4768人が出陣し、戦没者は264人との記録が残る。

 各大学で調査が始まったのは戦後50年ごろで、聞き取りや学籍簿から京大や龍谷大、大谷大などが名簿作成を進めた。学徒らが前線の下級指揮官や特攻隊など危険な任務に配置されたことが判明したという。

 ノンフィクション作家の保阪正康さんは旧軍関係者にも取材し、戦局悪化から学徒出陣は「付け焼き刃のように行われ、短期間に特攻兵器の操縦に熟練できる頭脳が必要だった」と読み解く。国の未来の支え手も捨て駒にした愚かさを痛感する。

 当時の大学は、存続と引き換えに軍事教練を必修化するなど譲歩や妥協を重ねた。軍政の求めに「後戻りできなかった」との歴史研究者の指摘は重い。

 戦後の大学は、その反省から戦争に加担しない立場を取ってきた。だが近年、政府は多額の研究費配分をてこに軍事研究への誘導と、大学運営の管理強化に動いている。大学関係者が反対する中、参院で審議中の国立大学法人法改正案が象徴的だ。

 自由な学びを願いながら倒れた学徒らの思いをつなぎたい。

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