“日本最古”の産地守る…縁つなぎ受け継ぐ看板レシピも 質実剛健、香り高く 毛呂山の「桂木ゆず」

たわわに実った桂木ゆずの収穫作業に追われる青木甫=毛呂山町滝ノ入

 江戸幕府の昌平坂学問所地誌調所が1810(文化7)年から30(文政13)年にかけて編さんした「新編武蔵風土記稿」の瀧野入村の項にこんな記述がある。「柚(ゆず)実 是(これ)も数十駄(1駄は135キロ)を出す」と。当時、まとまった量のユズを栽培していたことが分かる。「瀧野入村」とは、今の埼玉県毛呂山町滝ノ入。町がブランド化を進める「桂木(かつらき)ゆず」の主産地だ。

 同町は国内有数の古いユズの生産地とされ、その歴史は奈良時代までさかのぼるという。JAいるま野毛呂山柚子(ゆず)部会の元部会長、青木甫(はじめ)(80)は滝ノ入地区内に計約7千平方メートルのユズ畑を持ち、年2500キロほどを収穫。62歳まで町職員として勤め、退職後は専業農家だった父広寿が戦後間もなく植え始めたユズを守っている。「養蚕と林業で生計を立ててきたが、現金収入になったので栽培するようになった」と言う。

 滝ノ入などの町西部は外秩父山地の縁に当たり、標高150~250メートルの中山間地が広がる。水はけが良く、北西に山を背負う南東斜面は冬の季節風を防いでくれるため比較的温暖で、あまり霜も降りない。地元で「福みかん」と呼ぶ小粒のミカンも植えられてきた。昭和初期、そんな気候に着目して大規模栽培に乗り出したのが串田市太郎(1892~1980年)だ。

 串田家の13代目で、市太郎の孫功(65)は「小学生ぐらいの頃、収穫期には10人近い人を使っていた。県外からの視察も受け入れていたようだ」と振り返る。30ヘクタールほどの山林と畑を持つ旧家で、市太郎は芋や桑を育てていた畑をユズに変えた。元中学校教諭の功は農業を継がなかったが、「祖父は香りを楽しむ実を食べる時代が来ると言っていたらしい」と伝え聞く。

 市太郎の成功に触発され、周辺の農家も次々とユズを本格的に栽培するようになった。産地は阿諏訪地区などに拡大。さらに、越生町やときがわ町へ伝わっていった。

 かんきつ類の栽培により適した四国や九州などに比べれば寒く、ごつごつとした皮の厚い実が育つ。だが、香り成分は皮にある組織の「油胞(ゆほう)」に閉じ込められているため、ユズの命ともいえる豊かな匂いを生む。

 ユズ農家も高齢化し、後継者づくりが課題。柚子部会の会員数は2015年度の51軒をピークに、現在は45軒まで減った。青木は「山間地の農業を守るには、ユズ栽培しかない。どこにも負けない香り高い実が取れる地の利を生かすべき」と語った。(敬称略)

■ジャムを看板商品に

 毛呂山町は国内最古のユズ産地といわれるが、裏付ける資料は存在していない。滝ノ入地区には桂木寺(けいぼくじ)や桂木観音堂があり、10世紀後半ごろの作とされる県指定文化財の桂木寺木造伝釈迦(しゃか)如来坐像などが残る。

 奈良時代に高僧の行基が当地を訪れたと伝わり、風景が奈良県の葛城山に似ていたことから「桂木」と名付けられたとの説がある。ユズ栽培の起源も、行基伝説との関連で語られるようになった。

 農水省の特産果樹生産出荷実績調査では、埼玉県は昭和40年代半ばまでユズの主要産地だったが、その後は高知県や徳島県などに代わられた。2021年に県が発表した果樹農業振興計画によると、17年産の栽培面積は27ヘクタールで全国11位。19年産の県内は1位が12ヘクタールの越生町、2位は10ヘクタールの毛呂山町で、ときがわ町が3.4ヘクタールの3位で続く。

 15年から毛呂山町はブランド化に力を入れ、16年と18年に「桂木ゆず」を商標登録した。農家の女性たちは、加工品を製造する「ゆずの里工房」を2000年に設立。看板商品の一つがゆずジャムだ。町で生涯を閉じた米国出身のキリスト教伝道者で、幼児教育の先駆者エリザベス・フローラ・アプタン(1880~1966年)が作っていたレシピを受け継いでいる。

伝承のレシピでゆずジャムを作るゆずの里工房のメンバー=毛呂山町滝ノ入の町農産物加工センター

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