立佞武多の変遷、「ヤッテマレ」のルーツ… 郷土史家・半沢さん、「前史」を執筆中 青森・五所川原市

小冊子「東奥日報にみる五所川原のねぷた」を手にする半沢さん
明治時代のものと見られる五所川原の巨大ねぷた。題材は「仁徳天皇」とされる(平山敦士さん提供)

 青森県五所川原市の郷土史家で市文化財保護審議会会長の半沢紀(おさむ)さん(73)が、五所川原立佞武多(たちねぷた)の「前史」の執筆を進めている。明治時代以降の同市の夏祭りについて報じた新聞記事などを丹念に調べ、ねぷたや祭りそのものの変遷、代表的なかけ声である「ヤッテマレ」のルーツなどをたどる内容で、来年7月の出版を目指している。その途中段階として、このほど明治期からの東奥日報の関連記事を抜粋した小冊子「東奥日報にみる五所川原のねぷた」を作成した。

 小冊子では、東奥日報の創刊間もない1890(明治23)年から戦後の1958(昭和33)年までの関係記事41本を紹介している。

 今の大型立佞武多の原型となった巨大ねぷたについては、既に1890年8月の記事に登場し、「大なるものは十五間(約27メートル)の高きに達せりとか」などと記載。現在のものを上回るようなスケールであったことをうかがわせる。

 1917(大正6)年8月の記事では、商家がイルミネーションを施したり、人形を飾ったりしている様子が紹介されており、「町を挙げて祭りを盛り上げていたことが分かり、面白い」と半沢さんは話す。

 一方、24(同13)年8月の記事では「数十年来未曽有の五所川原ネブタ喧嘩(けんか)」の見出しが躍る。運行団体同士が衝突し、投石が横行。30人以上の重軽傷者を出し、近くの薬局も被害を受けた様子などが報じられている。

 「前史」執筆のきっかけは、同市出身の知人から来た質問だった。

 「子どもの頃のかけ声は『ラッセラー』だった。『ヤッテマレ』には違和感がある。大昔はそんなかけ声で、復活したと聞いたが、教えてほしい」というのが、おおよその内容。半沢さんは早速答えようとしたが、いざ昔のねぷたについて調べようとすると、手掛かりとなる資料がほとんどないことが分かったという。「それで、自分でまとめなくてはと考えた」

 半沢さんは、かつて市史編さんのために収集された東奥日報紙面のコピーが多数市に残されていることを知り、そこから関係記事を抜き出す作業を始めた。併せて昔の祭りを知る市民らへの聞き取りも行った。

 「ヤッテマレ」のかけ声については、いつごろからか確認できる直接の資料は見つかっていないが、聞き取りなどから、半沢さんは戦前の記事に頻繁に出てくる祭りでのけんかが起源では-と推測する。「戦前から『ヤッテマレ』のかけ声があったことは確認できた」とした上で「けんかが始まった時に、周りの参加者や群衆が『ヤッテマレ』とはやし立てた言葉が、やがてかけ声になったのでは」と語る。

 「前史」は来年の夏祭り前に出版する予定。半沢さんは「(平成の)立佞武多に至るまでの歴史が分かれば、祭りの見方も変わってくるはず」と張り切っている。

 「東奥日報にみる五所川原のねぷた」はA5判、26ページ。問い合わせは半沢さん(電話080-5228-7189、メールアドレスhanzawaos@yahoo.co.jp)へ。

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